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September 05, 2018

ケビン・ジョハンセンと仲間たち(2)

予告から1年以上間が開いてしまったが、「ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する」シリーズの最終日でめでたくケビン・ジョハンセン+ザ・ナダの『City Zen』に到達したので、このタイミングを逃してはと、「ケビン・ジョハンセンと仲間たち」のシリーズを再開することにした。

友達同士だったケビン・ジョハンセン(ヴォーカル、ギター)とフリアン・ベンハミン(ヴォーカル、キーボード。先日紹介したハビエル・カラマーロとも同級生だったという)は一緒に曲を書くようになり、ロベルト(ドラムス?)とダニエル(ベース)のクラウセ兄弟とインストゥルクシオン・シビカ(当初はサラトゥストラ――ツァラトゥストラのスペイン語読み――という名前だったという記述もあり)を結成する。2曲を録音したところでクラウセ兄弟が抜けてしまったが、スタジオが予約済みだったため、ベンハミンがドラムスのフェルナンド・サマレアを呼び寄せ、録音を続行する。この時はグスタボ・ドネースがベースを担当した。その後CBSと契約を果した時点で、ベースのダニエル・クラウセが復帰。そして85年6月から10月にかけてアルバム『Obediencia Debida』(訳すと「しかるべき服従」)を録音し、翌86年にリリースする。

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収録された9曲は2人の合作がメインで、2人で詞を書き、ジョハンセンが曲を書くというパターンが多かった。ジョハンセンの単独曲が1曲あるが、ベンハミンの単独曲はなし。ヴォーカルも2人で分け合っている。タイトル曲のみ、曲はジョハンセンとクラウセの合作となっている。サマレアはドラムス(シモンズ?)とローランドのリズム・マシーンTR-707のプログラミングを担当。サマレアはこのバンドの後、チャーリー・ガルシーアのバンドのドラマーを長く務め、バンドネオン奏者としてもユニークな活動を続けることになる。もう一人、クラリネットのアレハンドロ・テランも正式メンバーに加わっている。また、ゲストとしてセバスティアン・ションがアルト・サックスで、アクセル・クリヒエールがフルートで参加している。この2人とも、00年代以降もジョハンセンと関わることになる。
音はいかにもニュー・ウェイヴ以降といったシンプルでポップなロックで、00年以降のジョハンセンにみられるような多面性を兼ね備えたものではない。このアルバムはアルゼンチン以外の中南米諸国でも注目され、とりわけペルーではゴールド・ディスクに輝いた。(続く)

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September 03, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(10日目)

10日前のFacebookへの投稿を転載したこの企画も、今日で最終回。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。10日目/10日

Cityzen

Kevin Johansen + The Nada / City Zen (Los años luz 2-509201)

(続き)
スピネッタやチャーリー・ガルシーアとは違った意味でアルゼンチン・ロック史に大きな足跡を残してきた一人に、リト・ネビアがいる。アルゼンチン・ロックの黎明期にロス・ガトス・サルバーヘス(1964年~)、そこから発展したロス・ガトス(1967~1970)のヴォーカリストとして活躍したネビアは、ソロ活動も69年からスタートさせ、ジャズからタンゴ、フォルクローレに至るさまざまなタイプの音楽家(例えばパーカッションのドミンゴ・クーラ、バンドネオンのディノ・サルーシ、サックスのベルナルド・バラフ、フォルクローレ・コーラスのクアルテート・スーパイなど)との共演もこなしているが、最も注目すべきは、主宰するMelopeaレーベルのプロデューサーとして、新録や貴重音源の発掘に力を注いできた点にある。その中には、アストル・ピアソラ五重奏団が63年に残した放送音源の復刻や、晩年のロベルト・ゴジェネチェの新録音なども含まれる。
90年代前半には、タンゴやフォルクローレ以外の同レーベルの新譜CDなどもラティーナ代理部(同誌の物販部門)にはぽつぽつ入荷するようになっていたこともあって、「ラティーナ」では93年12月号に「ディスコス・メロペアの確かな足どり [上]タンゴ篇」、94年1月号に「ディスコス・メロペアの前向きな作戦 [下]MPA篇」と、2回に分けて紹介記事を書かせてもらった。MPAとはムシカ・ポプラール・アルヘンティーナの略で、ブラジルのいわゆるMPBに対応する言葉として(あまり一般的ではないが)使っている。実際にはこれにMPU、つまりウルグアイのポップ音楽も加わる。
ウルグアイ勢の中心となっていたのはルベン・ラダ、ウーゴとオスバルドのファトルーソ兄弟(元ロス・シェーカーズ、オパ)、オスバルドのパートナーだったマリアーナ・インゴールなどだ。とりわけ、コンガを叩きながらカンドンベをソウルフルに歌う黒人のルベン・ラダはお気に入りとなった。彼のアルバムは旧譜も含め、2000年の『Quién va a cantar』までだいたい聴いていたが、それ以降はご無沙汰となってしまっていた。
しばらくぶりに彼のアルバムに接したのは2015年9月のこと。たまたま立ち寄った新宿のディスク・ユニオンで2013年の『Amoroso pop』を見つけたら、これがポップ感覚全開の傑作で、ハマってしまった。そこから欠けていた部分を集め、参加作、関連作を含めてアルバム60枚ほどを一通り聴き、整理していたところで、「ラティーナ」2015年12月号でウルグアイ特集をやるというのでまとめたのが、『黒い魔術師ルベン・ラダ―変幻自在の軌跡をたどる―』という5ページの記事だった。
というわけで、ラダのアルバムも紹介したいところだが(1枚選ぶなら2004年の傑作ライヴ『Candombe Jazz Tour』だが、入手困難なのが口惜しい。また、タンゴとミロンガに正面から向き合った2014年の2枚組『Tango, Milonga & Candombe』も良い)、選んだのはそこから派生した1枚。人気者のラダはゲスト参加作も非常に多く、すべてを把握しきれていないが、判明している範囲でいくつか集めていた中に、ケビン・ジョハンセン+ザ・ナダのアルバムがあった。それを聴いて、今度はそのケビンたちのひょうひょうとしてユニークな音楽にすっかりやられてしまった。これほど自分のツボにはまったアーティストも久しくなかったと言えるほど、彼らとの出会いは衝撃的だった。これまでにリリースされた8枚のアルバム(内2枚はライヴ)はどれも甲乙つけ難いが、今回は2016年7月に最初に買った記念すべき1枚ということで、ラダ以外にもフェルナンド・カブレラやホルヘ・ドレクスレルといったウルグアイの人気ソングライターたちが参加した2004年の第3作『City Zen』を選んだ。

Cityzen_b12_2

※写真上のアルゼンチン盤は19曲入りだが、米国盤や写真下の英国盤は12曲入り(メドレーの数え方が異なるので実際は13曲入り)なので注意が必要。

ケビンについてはこれまでにもFacebookで何度か紹介しているが、2016年の大晦日に書いた次の文章を少し手直しして再掲しておく。
Kevin Johansen (「ラティーナ」など極めて限られた日本のメディアでは「ヨハンセン」と表記されているが、本人も周りも「ジョハンセン」と発音している)は、1964年6月にアラスカで生まれ、主にサンフランシスコやブエノスアイレス(一時期はウルグアイのモンテビデオ)で育った。父親は米国人、母親はアルゼンチン人。
80年代半ばにはブエノスアイレスで、インストルクシオン・シビカというニュー・ウェイヴ・バンドで活動し、アルバム2枚を残すが、この時関わったミュージシャンには、フェルナンド・サマレアやアクセル・クリヒエールといった、後にアルゼンチン音響派の一角を占める人材もいた。90年代はニューヨークで、パンク/ニュー・ウェイヴのメッカとして名高い、かのCBGB'sなどでハウス・バンドのメンバーを務めていた。
そして2000年、CBGB'sで録音したファースト・ソロ・アルバム『The Nada』をアルゼンチンの気鋭のレーベル、ロス・アーニョス・ルスからリリース。基本的にはポップだが幅広いジャンルの要素をぶち込んだ、人懐っこいけどぶっ飛んでる独自の世界が確立されていた。このアルバム・タイトルを冠したバンド、ザ・ナダをブエノスアイレスで結成し、2002年の『Sur O No Sur』以降、そのメンバーを中心に様々なゲストを迎えて、アルバムが作られている。

Nadasuronosur

ザ・ナダのメンバーも、ギターのチェバ・マッソロ、チャランゴほかのマキシム・パディン、フルートやサックスのカイオ・レボラティほか腕利き揃いだが、ピアソラやガト・バルビエリなどとの幅広い共演歴を持つ名ドラマー、エンリケ“スルド”ロイスネル(2016年の最新作『Mis Américas Vol. 1/2』のジャケット写真に写っているのが彼)が正式メンバーとして加わっているのが力強い。

Misamericasbi

セルジュ・ゲンズブールやレナード・コーエンからの影響を公言し、曲をカヴァーもしているように、低音のヴォーカルが魅力のひとつ。2012年の2枚組『Bi』に収められたコーエンのカヴァー「Everebody Knows」は、オルケスタ・エル・アランケを迎えて本格的なタンゴに仕上がっていて、秀逸な出来だった。どのアルバムも引き出しが多く、仕掛けもいろいろあって、聴きどころ満載。もっともっと多くの人に、その存在を知って欲しい。

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September 02, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(9日目)

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。9日目/10日

Villavicio

Javier Calamaro y su Orquesta Pirata presentan "Villavicio" (Típica 077-02)

(続き)
昨日スピネッタのライヴBOXを取り上げた際、私が初めて「ラティーナ」に寄稿したのは、85年12月号に掲載された「ロックとタンゴの無関係な関係」という記事だったと書いた。そこでは、ロックがレゲエやアフリカン・ビートなどを取り入れるようにタンゴのリズムを導入することは不可能だ、などと書いている。もちろん、20世紀の前半にブエノスアイレスからパリ経由で世界に広まったタンゴのリズムは、さまざまな形で各国のポピュラー音楽に取り入れられているし(「黒ネコのタンゴ」や「だんご3兄弟」も、分類としてはここ)、ロックに限っても、ルイス・フューリーの「ハスラーズ・タンゴ」やスラップ・ハッピーの「カサブランカ・ムーン」のような例はある(よく聴けばどちらも「ラ・クンパルシータ」をモチーフにしている)。私がそこで話題にしたのは、オスバルド・プグリエーセに代表されるアルゼンチン・タンゴのリズムの「揺れ」の特殊性についてである。タンゴには基本的にパーカッションが入らず、ピアノの特に左手と、アルコ(弓弾き)を多用したコントラバスを中心に組み立てられたリズムが、曲の中で揺れながらめまぐるしく変化していく。そのような特殊性ゆえに、反復するビートを基本とするロックやアフロ系音楽とは容易に相容れない、ということを言おうとしていたのである。例外はやはりピアソラだが、70年代のエレクトリックな編成によるジャズ=ロック的なアプローチは、彼が多用してきた3-3-2のリズムを援用することで可能となった。
そんなことを書いたりしていただけに、特に90年代末以降、アルゼンチンやウルグアイのロック系ミュージシャンがタンゴに大胆にアプローチしたり、タンゴ・エレクトロニコという新しいジャンルまでが登場したことを考えると、感慨深かったりするのだ。トム・ウェイツのようなダミ声でタンゴが本来持っていた猥雑な雰囲気を再現する怪人ダニエル・メリンゴ(元ロス・アブエロス・デ・ラ・ナダ)の登場はとりわけ衝撃的だった。女性ヴォーカルのドロレス・ソラーとソングライターのアチョ・エストルのユニット、ラ・チカーナもコンセプトはやや近い。スピネッタが組んだバンドの一つ、ペスカード・ラビオーソのメンバーだったキーボードのカルロス・クタイアの描く架空サントラ的世界もユニークだ。ヴォーカリストのフアン・カルロス・バリエートは90年代から、キーボードのリト・ビターレと組んでタンゴやフォルクローレの新解釈に取り組んでいる(当初はタンゴ・ファンからボロクソに言われていたらしい)。
ロス・アブエロス・デ・ラ・ナダでメリンゴと同僚だったアンドレス・カラマーロは、タンゴやフォルクローレ、ボレロなどで構成されたスペイン録音の『El Cantante』を2004年にリリースしているが、今日紹介するハビエル・カラマーロはその弟。オルケスタ・ティピカ(標準的楽団)ならぬオルケスタ・ピラータ(海賊楽団)を率いて、本格的なタンゴに挑戦する。レパートリーはオリジナル(キーボードとアレンジのレアンドロ・チアーペとの合作)と、アニバル・トロイロ作品を中心とした歌のタンゴで構成されている(エルナン・フィゲロア・レジェスのフォルクローレも1曲)。その歌いっぷりは堂々としたもので、歌も演奏も、タンゴっぽさとロックっぽさの重なり合い具合が絶妙。トロイロ=カトゥロ・カスティージョ作「La última curda(最後の酔い)」にはルベン・フアレスがバンドネオンで、「Yuyo verde(みどりの草)」には女ゴジェネチェの異名を取るアドリアナ・バレーラがゲスト参加。この『Villavicio』は2006年のアルバムだが、カラマーロは2014年にタンゴ・アルバム第2弾『La vida es afano』をリリースしている。

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September 01, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(8日目)

過去7日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。8日目/10日

Spinetta1

"Spinetta y Las Bandas Eternas"(レーベルなし、番号なし)

(続き)
86年にシエテ・デ・オロでブエノスアイレスに演奏旅行に行く1年前の85年7~8月、私はリーダーの齊藤一臣さんの鞄持ちのような形で、初めてブエノスアイレスの地に降り立った。初めて生で聴くオスバルド・プグリエーセ楽団は衝撃だったし、ほかにも印象的なライヴを観ることができた。レコードもいろいろ買ったが、それはタンゴだけではなかった。当時の日本では、アルゼンチンのロックについての情報など皆無だったが、やはり彼の地のロックがどういうものなのか気になった私は、スーパースター的存在のチャーリー・ガルシーア、美声のニト・メストレ(この2人はスイ・ジェネリスというフォーク・ロック・デュオで一緒だった)、レオン・ヒエコ(ニール・ヤング的な感じからスタートし、フォルクローレにも大胆にアプローチしていく)、セル・ヒラン(後述)のアルバムなどを適当に見繕って買ってきたのである。デビュー間もなかったフィト・パエスのファースト・アルバム『Del '63』のジャケットを手に取った記憶はあるが、この時は買わなかった。まさかその後シーンを牽引する存在になるとは思いもよらなかったな。
私が初めて「ラティーナ」に原稿を書いたのは85年12月号で、それは「ロックとタンゴの無関係な関係」という記事だった。そこでもそれらのレコードについて軽く触れているが、まだ全体像が見えておらず、今読み返すとかなり見当違いのことを書いていて恥ずかしい。その後もアルゼンチンのロックのことが気になったりはしていたが、現地でのレコード集めは、どうしてもタンゴを優先させていたので、あまり進まなかった。むしろ90年代に入り、西新宿のレコード店に中古盤がぽつぽつ入ってきたり(リストをみてオーダーすることも出来たりした)、ディスクユニオンやヴァージンメガストアなどに新譜CDが少しずつ入って来るようになってきて、ようやく見通しがよくなってきた。キーボードのチャーリー・ガルシーア、ギターのダビッド・レボン、ベースのペドロ・アスナール(パット・メシーニ・グループでも活躍)、ドラムスのオスカル・モロの4人組、セル・ヒランの92年の再結成アルバム『Seru Giran 92』、元MIAのリト・ビターレがペドロ・アスナールほかフォルクローレからジャズに至る多彩なゲスト陣を招いて完成させた『Juntando almas』(93年)といった傑作の登場も大きかった。チャーリー・ガルシーアと並ぶ大物でありながら、何となく全体像の見えにくかった(ルイス・アルベルト・)スピネッタがようやく視界に入ってきたのもその頃だった。
何故全体像が見えにくかったか。とにかくスピネッタほど変幻自在な存在もほかにいないからである。68年にスタートさせた最初のバンド、アルメンドラはサイケデリック、72年結成のペスカード・ラビオーソ(ダビッド・レボン在籍)はブルース・ロック、74年のインビシーブレはプログレ、77年にソロになってからはAORやニュー・ウェイヴ、80年のスピネッタ・ハーデはフュージョンと、その時期ごとのバンドで幅広いアプローチを見せたが、もちろん単純に分類できるわけではなく、それぞれにおいてさまざまな要素が複雑に絡み合っている。97年の『Spinetta y Los Socios del Desierto』ではロックの原点に立ち返ったようなソリッドなサウンドを展開していて驚かされた。そして00年代に入り、新たなバンド編成で更にリフレッシュし、充実したアルバムを連発していったのである。

Spinetta2

38.5cm×29.5cmの大型パッケージにCD3枚とDVD3枚、写真集2冊が収められたこのBOXは、2009年12月4日にブエノスアイレスのベレス・スタジアムで行われた、3時間以上におよぶ集大成的ライヴを収めた完全版。現在のバンドによる鉄壁のアンサンブルを基調に、彼のキャリアを彩ってきた各バンドの当時のメンバーも集結。チャーリー・ガルシーア、フィト・パエス、元ソーダ・ステレオのグスタボ・セラティ、人気ヒップホップ・ユニット、イリャ・クリャキ&ザ・バルデラマスで活躍する息子ダンテ・スピネッタら豪華ゲストも参加した一大絵巻だ。
アルゼンチン・ロック界の真のカリスマだったスピネッタは、数多くの名曲が詰まったこの素晴らしい記録を遺し、2012年2月8日に62歳でこの世を去ってしまった。こんな音楽家はもう現れないだろう。

オープニングの「Mi elemento」。

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