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August 31, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(7日目)

過去6日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。7日目/10日

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Frankie Valli & The 4 Seasons / Half & Half (Philips PHS 600-341)

80年代から90年代の頃には、ザ・ビーチ・ボーイズやザ・キンクスなど、60年代に登場したバンドを改めて聴き直すことも多かったが、当時は視界に入ってこなかったのがフォー・シーズンズだ。そもそも、アルバム『ペット・サウンズ』の再評価、ブライアン・ウィルスンの復活とその後の安定したソロ活動などにより、新たなステイタスを獲得したビーチ・ボーイズと比べて、フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズはロック・ジャーナリズムの世界でも長年無視され続けてきた(大瀧詠一×山下達郎対談を含む「レコード・コレクターズ」92年3 〜4月号の特集など数少ない例外はあったにせよ)。
そんなフォー・シーズンズの音楽がようやく見直されるきっかけとなったのが、彼らを題材として2005年にブロードウェイで開幕したミュージカル『ジャージー・ボーイズ』がロングランとなったこと。ただしこれはアメリカ合衆国本国での話で、ミュージカルを観ることの叶わない日本にはなかなか波及しなかった。それでも2007年には彼らの歩みをまとめたCD3枚+DVDのセット『... Jersey Beat... The Music Of Frankie Valli & The 4 Seasons』も出て、私はこれを聴いてようやく彼らの奥深い魅力に気付かされた。しかも、本国でも彼らの人気が低迷していた60年代終盤から70年代前半の時期にも充実した作品群を残していたことには、心底驚かされた。それからは、彼らが残した全作品や関連作を集め、ブログでも2012年3月から彼らについて継続的に紹介し始めた。そうこうする内に、夢かと思われた彼らの初来日公演も2014年1月に実現し、同年には『ジャージー・ボーイズ』がクリント・イーストウッド監督により映画化されて話題となり(日本公開は9月)、ミュージカルも2015年6〜7月に来日。それに合わせて拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』をスペースシャワー・ブックスから上梓することも出来た。
信じられないようなことが続いたが、結局のところ、『ジャージー・ボーイズ』という作品が人気を得ただけであって、残念ながらその音楽を作り出したフォー・シーズンズの再評価には結び付かなかった。私ごときの力でどうなるものでもないとは言え、口惜しい限りである。
とりわけ私が光を当てたかったのは、ベーシストがジョー・ロングの時代の諸作、アルバムでいうと67年の『New Gold Hits』から、69年のコンセプト・アルバム『The Genuine Imitation Life Gazette』、今回紹介する『Half & Half』、MoWestからの唯一のアルバムとなった72年の『Chameleon』までの4枚が該当する。
70年4月にPhilipsからの最終作としてFrankie Valli & The 4 Seasons名義でリリースされた『Half & Half』には、ローラ・ニーロの「Emmie」をタイトルを変えてカヴァーした「Emily」から、バート・バカラック作「Any Day Now」とエドウィン・ホーキンズが有名にした「Oh Happy Day」のメドレーまで、フランキー・ヴァリのソロ曲とフォー・シーズンズとしての曲が5曲ずつ収められている。メンバーのボブ・ゴーディオ、長年彼らのアレンジを手掛けてきたチャールズ・カレロのほか、デニー・ランデル、ハッチ・デイヴィ、ジョー・スコットという豪華編曲陣によるふくよかでコクのあるサウンドに載せて、フランキーたちは充実した歌唱を聴かせてくれる。私にとってはこれが彼らのベスト。「Sherry」も「Can't Take My Eyes Off You(君の瞳に恋してる)」も「Who Loves You(愛はまぼろし)」ももちろん素晴らしいが、それだけではない彼らの魅力に、もっと多くの人々が気付いて欲しい。

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August 30, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(6日目)

過去5日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。6日目/10日

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Tony Kosinec / Almost Pretty (Vivid Sound VSCD-069)

タンゴが自分の中に占める比重が高くなったとはいえ、他の音楽、とりわけロックやポップスを聴かなくなったわけではなかった。私は89年から97年まで、レンタルショップに専門にCDを卸す会社(代行店と呼ばれた)の一つに勤務し、出荷業務などのほか、各メーカーから毎月届けられる新譜案内をもとに、顧客向けの新譜案内を作ったりしていた。だからこの時期は洋楽邦楽を問わず、どんな新譜が出るか把握出来た。サンプル盤もいろいろ来るし、新譜はシールドを剥いてレンタル用のシールが貼られた状態で入荷するから、オーダーさえあれば、聴いてみたいものはいくらでも聴くことが出来た。
だが、この時期によく聴いたアーティストやアルバムで、今でも聴き続けているものは実は多くはない。せいぜいプリファブ・スプラウトぐらいだろうか。むしろ現在までの愛聴盤は、その後の時期に現れた。
イギリス生まれ、カナダ育ちのシンガー・ソングライター、トニー・コジネクの人気盤といえば、ピーター・アッシャーがプロデュースした70年のセカンド『Bad Girl Songs』にとどめを刺すだろうが、私は73年の『Consider The Heart』の方が彼らしい気がして好きだった。85年にカナダのTrue Northから『The Passerby』が出たことはどこかの輸入盤店の広告で知ったが、入荷が少なかったようで、手に入れられないまま長い年月が過ぎた。
だから、日本のヴィヴィッド・サウンドが2000年にその『The Passerby』と、78年に録音されながらお蔵入りしていた『Almost Pretty』を世界初CD化してくれた時は、ホントに嬉しかった。どちらも期待に違わぬ出来だったが、とりわけマイケル・ケイメン(元ニューヨーク・ロックンロール・アンサンブル、その後映画音楽の大家に)がプロデュースとストリングス・アレンジを手掛けた後者はお気に入りとなった。以来18年間ずっと聴き続けているが、全然飽きることがない。そもそも79年にMercuryからのリリースが見送られたアルバムであり、一般的な評価も人気もわからないのだが、コジネク本人が自身のアルバム中のフェイヴァリットに挙げているのは納得。彼の本質は、このくらいポップでカラフルなサウンドにこそ現れていると思う。

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August 29, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(5日目)

過去4日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。5日目/10日

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Roberto Goyeneche / El poraco por dentro (RCA Víctor TLP-60145)

(続き)
シエテ・デ・オロに入ったのは、バンドネオンを教えてもらうのがそもそもの目的だったはずだが、別に先生がいる訳ではなく、メンバー同士で教え合う程度のものだった。試行錯誤しても、なかなか思うようには弾けなかった。そうこうしている内に、また齊藤一臣さんがやってくれた。新宿の京王プラザホテルでの長期演奏のために来日していたオスバルド・レケーナ四重奏団のメンバー、ピアノのレケーナとバンドネオンのダニエル・ビネリを三田塾の練習場所に連れて来たのである(その時通訳として同行してきたのがパーカッション奏者のヤヒロトモヒロさんだった)。この指導は短期間だったが大きかった。そして私は思った。バンドネオンをちゃんと習得するには、ブエノスアイレスまで行くしかないと。
今から思えばとんでもない贅沢をさせてもらったとしか言いようがないのだが、87年5月から1年間、ブエノスアイレスでアパートを借りて、ビネリのもとでレッスンを受けた。結果的に奏者としてはモノにならなかったのだが(申し訳ない)、数多くのライヴを観て、数多くの貴重なレコードを集めた。毎週木曜日のアルベアール劇場での市立タンゴ・オーケストラ(指揮はカルロス・ガルシーアとラウル・ガレーロ)の無料コンサート。オペラ劇場でのオスバルド・プグリエーセ楽団と歌手ロベルト・ゴジェネチェの共演コンサート(これはヴィデオになり、客席の私も一瞬映っていた!)。マリアーノ・モーレスのショーは凄い人気だった。カフェ・オメロで至近距離で観たネストル・マルコーニやルベン・フアレス。海外公演の多いアストル・ピアソラはブエノスアイレスではただ一度、ルナ・パーク・スタジアムでのカメラータ・バリローチェとの共演(バンドネオン協奏曲)を観ることが出来た。
ゴジェネチェは、プグリエーセとの共演以外にも何度か観た。帰国後の88年にも『タンギッシモ』という、それはそれは素晴らしいステージのために来日してくれたが、ヨレヨレになったあの時期の彼を観ることが出来て、ホントに良かったと思う。
『内側からのエル・ポラーコ』(エル・ポラーコ=ポーランド人とはゴジェネチェのあだ名)というタイトルのこの85年のアルバムは、いつものオルケスタではなく、カルロス・フランセッティのシンフォニックな大オーケストラ(バンドネオンはマルコーニ)が伴奏を手掛けた異色作だが、特に思い出深い。冒頭の「ロス・マレアドス(ロス・ドパードス)」がいきなり凄い。そしてトロイロの肉声(68年の四重奏団での「わが町へのノクターン」の語り)から、エンリケ・フランチーニ=オメロ・エスポシト作「あのトロイロという若者」へとメドレーのように繋がる。ユパンキやビオレータ・パラのフォルクローレまで取り上げている。ゴジェネチェの懐の深さを感じさせてくれる一枚だ。

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August 28, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(4日目)

過去3日間に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。4日目/10日

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Horacio Salgan - Edmundo Rivero (Antar Telefunken PLP 2003)

(続き)
ピアソラにはまると、バンドネオンという楽器にものすごく興味が沸き、弾いてみたくなった。タンゴを演奏したいというわけではなく、自分のバンドに取り入れてみたかったのである。タンゴを紹介するほぼ唯一のメディアだった雑誌「ラティーナ」を発行している恵比寿の中南米音楽では、雑誌でも紹介している輸入レコードを取り扱っていたので、よく通うようになっていた。そこで楽器について中西義郎社長に相談し、触らせてもらっていると、横浜にバンドネオン教室が出来たという。紹介されていった先が、平沼橋にある三田教育研究所という学習塾で、そこは塾長の齊藤一臣氏率いるタンゴ楽団、シエテ・デ・オロの練習場所でもあった。貴重な楽器も貸して貰えて、教えても貰えるかわりに、楽団に入れと言う。というわけで、タンゴについては何も知らない状態で、アマチュア・タンゴ楽団に参加することになってしまった。当時楽団でバンドネオンを弾いていたのは、浦島楯さんと並木恵さん。当初はフランシスコ・カナロやオルケスタ・ティピカ・ビクトルといった20~30年代のオルケスタをお手本に、割とのんびりした演奏をしていたが、やがて一臣さんが一念発起、現代タンゴの最高峰と謳われたオスバルド・プグリエーセ楽団のサウンドに挑戦することになったのだ。
シエテはメンバーの出入りが多かったが、やがてチェロの翠川敬基さんやコントラバスの齋藤徹さんといったフリー・ジャズ界の大物が参加。ピアノがいなくなり、私が大学時代の友人だった植松伸夫くんを連れてきた。彼は後にファイナル・ファンタジーの音楽で有名になる。そして86年に楽団でブエノスアイレスに乗り込んで、恐れ多くもプクリエーセ楽団との共演ステージに臨むことになる直前、私が知り合ったあがた森魚さんまで乱入…
といった話を書いているだけで長くなってしまうので、詳しい話は置くとして、ともかくプグリエーセとの出会いが大きかった。最初に買ったプグリエーセのレコードは50年代の名演を集めた東芝からの編集盤だった。最初のうちは訳がわからなかったが、だんだん面白さがわかってくる。ピアソラが切り開いたモダン・タンゴの世界VS古典タンゴ、という簡単な図式ではなかったのだ。ピアソラの師であるアニバル・トロイロから更に遡ると、現代タンゴの祖と言われたヴァイオリン奏者のフリオ・デ・カロにたどり着く。ピアソラが「デカリシモ」を捧げた巨匠だ。ピアニストのプグリエーセもまた、デ・カロの流れをしっかりと受け継ぐ巨大な存在であり、それぞれがそれぞれの方法論で、音を極めていったのである。
プグリエーセは本当によく聴いたし、89年に東京で聴いたラスト・コンサート(実際にはその後も活動は続いたが)も忘れがたい。ラティーナに原稿を書くようになってからは、プグリエーセの全録音を紹介する連載もやらせてもらった。それだけ思い入れも強いのだが、一番好きなのはアルフレド・ゴビ楽団だったりする。ヴァイオリンのゴビもプグリエーセの盟友だったが、ボヘミアン的性格で活動は一定しなかった。だが残されたレコードはどれも凄いのである。ゴビが亡くなったあと、ピアソラは「アルフレド・ゴビの肖像」をささげた。
なのでここで、プグリエーセやゴビも紹介したかったのだが、今回選んだのはピアノのオラシオ・サルガンである。「この1枚」というテーマで絞り込むと、サルガンがオルケスタを解散させてしまう直前の57年にウルグアイのアンタール・テレフンケンに録音したこの10インチ盤に止めを刺してしまうのである。
サルガンもデ・カロ派だが、ブラジルのショーロなどのテイストもあり、極めて個性的な位置にいる。そしてここでは通常のオルケスタ・ティピカの編成(複数のバンドネオン、複数のヴァイオリン、ピアノ、コントラバス、場合によりヴィオラやチェロ)にバス・クラリネットを加えている。このアルバムを最後に楽団を解散した後、生涯の盟友となるギターのウバルド・デ・リオとの出会いが待っているのであるが。
実はこのアルバムは、サルガンが100歳で大往生を遂げた2年前にも紹介したことがあったが、好きなんだからしょうがない。以下はその時のコピペ。かつてサルガンが見出した大歌手エドムンド・リベーロとの2曲、とりわけ「わが両親の家」(後にフィリップスに再録音)が凄い。珍しいピアノ・ソロによる「ラ・カチーラ」、ピアノと弦セクション、バス・クラリネットによる「黒い花」も絶品。

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August 27, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(3日目)

昨日、一昨日に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。3日目/10日

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Astor Piazzolla y su Quinteto Nuevo Tango / Concierto de Tango en el Philharmonic Hall de New York(ニューヨークのアストル・ピアソラ)(Polydor 27136)

(続き)
大学ではバンド活動のほか、大学祭実行委員などもやっていたが、いくつかの事情によりあまりキャンパスには行けなくなり、横浜・鶴屋町の印刷屋の2Fに出来た貸しレコード店(まだほんとに黎明期だった)でバイトを始めた。やがて店を任されるようになり、大学は4年の途中で中退してしまった。雇われ店長を1年ほど務めた頃、オーナーだった印刷屋のオヤジが「貸しレコード店は飽きたからやめる」と言う。そこで中古レコード店に意匠替えしたらどうかと提案したところ、使っていたレコードを安く譲るから、お前が店をやれと言う。というわけで82年の秋、中古レコード店レコピアをスタートさせた。レンタル時代の顧客名簿も買い取ってDMを送ったが、やはり客層は異なり、反応は少なかった。そして、人よりも車の多い通り沿いの2Fという立地条件もあり、客足は延びなかった(最終的に2年ほどで閉店)。むしろ中古盤と並んで店の目玉とした、パンク系のソノシートなどインディーズ盤の新品の方が、利益はともかく反応はよかった。
それでも中古盤目当てで通ってくださったお客さんの中に、主にラテン系のレコードを定期的に売りにくる方がいた。サルサやボレロなどがメインだったと思うが、そんな中にアストル・ピアソラのレコードも紛れていたのである。実際に買い取り、店で聴いてみたのを覚えているのは、67年に大編成オーケストラで古典タンゴを演奏した、「タンゴの歴史」シリーズの1枚『レクエルド』(82年の初来日記念盤としてポリドールから再発、原題は"La historia del tango - Epoca Romántica")と、RCAのオムニバス『ロコへのバラード~われらのタンゴ』。このオムニバスに収録されているピアソラは、ロベルト・ゴジェネチェの歌う「ロコへのバラード」「チキリン・デ・バチン」を伴奏した2曲(原盤はピアソラ=ゴジェネチェ名義のシングル)と、アニバル・トロイロとのバンドネオン二重奏(原盤は別のオムニバス)というやや地味な扱い。むしろ私が最初に強く惹かれたのは、タンゴ史上最高のヴァイオリン奏者のひとりで、しばしばピアソラとも共演したエンリケ・マリオ・フランチーニの八重奏団による4曲だった(この4曲のみこのオムニバスが初出)。この4曲は、サルタ州出身でフォルクローレからフリー・ミュージック的世界に進み、ECMに名盤を残すことになるディノ・サルーシが、珍しくタンゴでバンドネオンとアレンジを担当している点でも貴重だった。
いずれにせよ、ピアソラという存在に興味を持った私は、小貫信昭氏がミュージック・マガジンに連載していた「ジャバーラ・ジャーナル」でピアソラを紹介されていた82年7月号を読み直し、新星堂に行って帯に「最高傑作」と書かれた1枚を買ってきた。日付を記録していなかったのだが、84年の初め頃だったと思う。それが65年にキンテート(五重奏団)で録音した『ニューヨークのアストル・ピアソラ』だった。

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(最初に買った82年の国内盤および74年の国内初盤のジャケットの元になった、72年のアルゼンチンでの再発盤)。

ピアソラは長い活動歴の中で多くの名盤を残しているが、「最高傑作」の文句に偽りはなかった。実際、極めて優れた演奏内容を誇るこのアルバムは、60年に結成されたキンテートが最初のピークを迎えた65年に、はじめて全曲ピアソラ作品のみで構成されたアルバムとしてリリースされた、ピアソラ全史の中でも屈指のアルバムだったからだ。タイトルが紛らわしいがこれはライヴ録音ではなく、文化使節の一員としてニューヨークのリンカーン・センターにあるフィルハーモニック・ホール(現:デイヴィッド・ゲフィン・ホール)で公演を行って帰国後に、ブエノスアイレスのスタジオで録音したアルバムである。写真のオリジナル盤は、87年6月にブエノスアイレスで購入したもの。
私の人生を変えてくれたこのアルバムから、ピアソラやタンゴとの長い付き合いが始まったのである。

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August 26, 2018

ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(2日目)

昨日に続き、10日前のFacebookへの投稿を転載する。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。2日目/10日

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Carole Laure / Alibis (RCA / Saravah RSL 1072)

(続き)
ボブ・ディランやザ・バンド、スティーリー・ダンやリトル・フィートなどからアメリカン・ロックに深入りしていった高校生の私は、他の音楽をあまり聴かなくなっていた。洋楽を聴き始めた頃は、ラジオから流れる様々なタイプのポップスに分け隔てなく接していたはずなのに。
歌謡曲も実はバカにしていたのだが、浪人中の77年9月、たまたまテレビで観た太田裕美の「九月の雨」にやられた。それからはピンク・レディ、山口百恵、沢田研二の三つ巴のチャート争いが面白くなった。そして78年、神奈川大学へ入学。ロック研究会というサークルに入ったら、アメリカン・ロック派はごく少数で、ハード・ロックやプログレからパンク/ニュー・ウェイヴに流れていた連中が多かった。そこでいろいろ聴かせてもらったことが大きい。マガジン、バズコックス、XTC、エルヴィス・コステロ、テレヴィジョン、トーキング・ヘッズ、スージー&ザ・バンシーズなどなど。日本のロックも面白かった。近田春夫&ハルヲフォン『電撃的東京』、パンタ&HAL『マラッカ」、遠藤賢司『東京ワッショイ』など。大講堂で観たRCサクセション、リザード、フリクション。ピアノが弾けるというのでバンドにも誘われていた私は、やがて自分でもバンドを始めた。
シャンソンが好きな友だちもいて、バルバラやジョルジュ・ブラッサンスも教えてもらった。そんな流れからブリジット・フォンテーヌやピエール・バルーら、サラヴァのアーティストにも注目するようになった、というような流れだったと思う。
カナダはケベック出身の特異なシンガー・ソングライター、ルイス・フューリーのA&Mからの75年のファースト・アルバムが、79年にアルファのA&M Rock Special Collectionの1枚として出て、これはすぐに買った。そしてルイスの愛人といわれていた(実際に結婚)、同郷の女優で歌手のキャロル・ロール(実際の発音は「ロー」に近い)がサラヴァから78年に出していたアルバム『Alibis(アリバイ)』のことは、リザードのカメラマンをやっていたMくんに教えてもらったのと、ニューミュージック・マガジン81年5月号輸入盤紹介の鈴木慶一氏によるレビューを読んだのと、どっちが先だったか。ともかく私は81年9月6日にこのアルバムを購入している。
ピアノやバンジョー、ストリングスなどが効果的に配置されたジョン・リーサゥアの見事なアレンジに乗せて(フランスっぽいが彼はアメリカ人で、多分ニューヨークの人)、キャロルは魅力的なアルトの歌声を聴かせてくれる。この耽美的な美しい世界にはどっぷりはまることとなり、未だに逃れられない。そして、ルイスのソロもそうだが、タンゴにアプローチしている曲があることが、私にとっては大変重要だ。後にピアソラに向かう素地は、彼らの作品を通して育まれたともいえるからだ。
82年のポルト・サン=マルタン劇場でのルイスとのライヴ盤も素晴らしいが、85年のルイス名義のサントラ『Night Magic』(作詞はレナード・コーエン)を最後に、この独特の雰囲気は消え失せてしまう。89年の『Western Shadows』以降のアルバムは、ルイスのプロデュースであるにも関わらず、悪くはないが平凡だ。結局のところ、レナード・コーエンなども手掛けるリーサゥアのアレンジによるところも、実は大きかったのではないか。
全編フランス語で歌われている『Alibis』だが、ドイツ盤は11曲中7曲が英語ヴァージョンだったことを今年になって知り、手に入れることができた。大学時代のバンド仲間のIくんのおかげである。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている生涯のお気に入りアルバムを10枚(1日目)

Facebookで8月15日から毎日書き続けていたこの企画。あちらでは完結したが、せっかくなのでこちらでもアップしておくことにする。文章が長くなってしまったので、1日1枚のペースはこちらでも守ろうと思う。

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ほんとうに衝撃を受け、かつ今でも聞き続けている(ごくたまにであっても)生涯のお気に入りアルバムを10枚。毎日ひとつずつジャケを投稿する。1日目/10日

もうこの企画への投稿も一時ほど見かけなくなり、収束傾向なのかも知れないが、吉村俊司さんからご指名を受けたので、喜んで引き受けることにした。解説は不要とのことだが、やはり簡単でも解説は書いておきたい。また、毎日一人ずつ指名というルールも当初はあったようだが、最終日の指名に留めたいと思う。というわけで初日。

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Steely Dan / Katy Lied (嘘つきケイティ)(Probe IPS-80181)

中学2年だった72年の秋、『サイモンとガーファンクル・グレーテスト・ヒット』をきっかけに洋楽を聴き始めた私の情報源は、ラジオ関東で始まった「全米トップ40」や雑誌「ミュージック・ライフ」だった。ギルバート・オサリヴァン「アローン・アゲイン」、イングランド・ダン&ジョン・フォード・コーリー「シーモンの涙」、シカゴ「サタデイ・イン・ザ・パーク」、ミシェル・ポルナレフ「愛の休日」、ラズベリーズ「明日を生きよう」、デイヴィッド・ボウイ「スターマン」…。ラジオから流れてくるヒット曲に夢中になった。
73年、一番興奮したのはポール・サイモン待望の新曲「僕のコダクローム」。次点はスリー・ドッグ・ナイト「シャンバラ」かな。そして74年の春休み、姉の引越しの手伝いをしながら流していたFENから聴こえてきた曲のエンディング近く、軽快なハーモニカに釘付けになった。ボブ・ディランの「こんな夜に(On A Night Like This)」だった。ザ・バンドがバックを務めたアルバム『プラネット・ウェイヴス』を買いに走り、7月に出たディラン/ザ・バンドの強力ライヴ2枚組『偉大なる復活(Before The Flood)』で興奮状態に。
で、このままディランにはまっていくはずだったのが、更なる強力な出会いが待ち構えていた。それが、やはりFENから流れてきたスティーリー・ダンの「リキの電話番号(Rikki Don't Lose That Number)」だった。なんなんだ、このへんてこりんなコード進行とメロディ、癖のあるヴォーカルは! アルバム『プリッツェル・ロジック(さわやか革命)』(何て邦題だ!)も最高だった。過去の2作も当然買い揃え、東芝EMI公認スティーリー・ダン・ファン・クラブの最年少会員となった私は、ギターのジェフ“スカンク”バクスター脱退の報にたじろぎつつ、次のアルバムを待った。
そして75年4月、『Katy Lied』リリース(タイトルは、雑誌で報じられた当初は『Katty Lies』だったりした)。すぐに輸入盤を買い求めたが、国内盤『嘘つきケイティ』が出ると、買い換えてしまった。当時家にあったのは古い家具調ステレオだったこともあって音質の微妙な差もわからず、解説や対訳のついた国内盤の方が有難かったのだ。
そんな思い入れのある『嘘つきケイティ』だが、後から振り返っても、私にとって最も彼ららしい、最良の一枚だと思う。初期のゆるさ、人懐っこさ、バンドっぽさと、後期の高度な洗練、隙のない完成度、そのちょうど中間の絶妙な位置に、このアルバムは存在している。何よりもチャーミングな曲が揃っているのがいい。そしてこのアルバムのサウンドは、私にとっていろんな好みや良し悪しを判断する基準の一つにもなっている。
それにしても、「リキの電話番号」や『嘘つきケイティ』を彩っているセンスのよいピアノ、てっきりドナルド・フェイゲンが弾いていると思っていたら、実はどれもマイケル・オマーシャンだったと知った時のショックと言ったら!

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August 08, 2018

ピアソラ=フェレール幻のオラトリオ『若き民衆』をめぐる真実

感無量である。20数年間追い続けた、アストル・ピアソラ(曲)=オラシオ・フェレール(テキスト)による幻のオラトリオ『若き民衆(エル・プエブロ・ホーベン)』のテレビ放映版を、遂に観ることが叶ったのだから。

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これはオープニングではなくエンディング部分のタイトル

ところで、この『若き民衆』とは、いったいどのような作品なのか。新たに判明した事実を元に、成立までの動きを追ってみよう。

1970年、ピアソラ五重奏団は、ブエノスアイレスのライヴハウス、ミケランジェロに定期的に出演していた。そこに撮影に来たのが、ドイツのザールブリュッケンのテレビ局「チャンネル2」である。

年が明けて1971年、五重奏団をいったん解散したピアソラは2月中旬、パートナーでもある歌手のアメリータ・バルタールと連れ立ってパリに向かう。そこに件のドイツのテレビ局から、専属のオーケストラとコーラス隊を配置してピアソラの音楽を紹介するという1時間の特別番組の企画の提案が舞い込む。これを受けたピアソラはそれに見合うテキストを書くようフェレールに声を掛け、3月にはフェレールも合流。ザールブリュッケンで契約が結ばれ、ピアソラとフェレールは作品作りに取り組んだ。そして5月24日に書き上げられたのが、オラトリオ『若き民衆』である。

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3人は8月に帰国。ピアソラは新たなグループであるコンフント9(ヌエベ)を結成し、11月20日にレジーナ劇場で正式にデビュー。RCAビクトルにアルバム『ブエノスアイレス市の現代ポピュラー音楽 第1集』を録音したのは、ディエゴ・フィシェルマンの監修した2005年版CD("Edición crítica"シリーズ)によれば12月15日とのことだが(わずか1日ですべて録音されたのかは疑問)、その直後にアメリータと共にザールブリュケンに向かい、2週間かけて自身のバンドネオンとアメリータの歌、そしてザールブリュッケン放送交響楽団およびザールラント放送ダンスオーケストラの楽団員で構成された60人編成のオーケストラ(指揮はハインツ・ゲーゼ)によって『若き民衆』サウンドトラックのレコーディングが行われる。この時は朗読とコーラスは録音されなかった。歌詞はともかく朗読がスペイン語のままでは視聴者に伝わらないという判断も働いたようだ。

番組制作が再開されたのは実に1年後の1972年12月で、この時はホースト・ドイチャー率いるテレビ局の撮影クルーがブエノスアイレスを訪れ、街や人々、パラナーのデルタ地帯、アメリータと男性(振付師オスカル・アライスのバレエ団のダンサー)との濃厚な絡み、といったそれぞれの曲に見合うシーンが撮影された。これに遡る10月中旬、ピアソラは単独でザールブリュッケンに行き、進捗状況を確認していたようである。

1973年は『若き民衆』に関して、何も進展がなかった。ピアソラとアメリータの関係は冷め始めていて、お互いに単独での行動も多かった。更に、ピアソラとフェレールで『ブエノスアイレスのマリア』を書いていた1967年の終わりに結んだ5年間のパートナーシップ(基本的にお互いのためにしか曲や詞を書かないという取り決め)も終了していた。そしてこの年の10月25日、ピアソラは心臓発作で倒れ、休養を余儀なくされる。

1974年3月、復帰したピアソラはアメリータとヨーロッパに向かい、ジュネーヴ経由でイタリアに入り、ローマでの生活を始める。5月、ピアソラがミラノでアルバム『リベルタンゴ』を録音中に、アメリータはブエノスアイレスに帰ってしまったが、7月には戻ってくる。そして9月から10月に掛けてジェリー・マリガンとの『サミット』を録音、これにはアメリータも立ち会った。そして11月頃、ピアソラとアメリータはミラノで「マティルデへの小さな歌」(パブロ・ネルーダ作詞)と「みんなのビオレータ」(マリオ・トレーホ作詞)の2曲を録音するが、これがこのカップルにとって最後のスタジオ録音となった。11月下旬に2人はブエノスアイレスに戻り、12月3日にコリセオ劇場でこの時期唯一のコンサートを行う。前半では曲によってはロドルフォ・メデーロス、ダニエル・ビネリ、フアン・ホセ・モサリーニとのバンドネオン四重奏も組み込んだエレクトリックな編成で『リベルタンゴ』の世界を再現、後半は五重奏団(ピアノはダンテ・アミカレリ)という豪華な内容で、アメリータも両方の編成で数曲ずつ歌った。

1975年1月5日にブエノスアイレスを発ったピアソラとアメリータは、リオデジャネイロ経由でローマに戻る。その後ザールブリュッケンに向かい(アメリータが先に行き、作業を進めていたという話もある)、ついに『若き民衆』を仕上げることになった。この時にはまず、1971年12月に録音されていた音源に、朗読とコーラスがオーヴァーダビングされている。ドイツの俳優、チャールズ・ウィルツ(1926-2012)が朗読したドイツ語のテキストは、スペイン語によるフェレールのそれを忠実に翻訳したものだった。そして完成された音源に合わせて、スタジオでの演奏シーンが収録された。つまり口パクや当て振りというわけである。

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画面に映っているのはピアソラ(バンドネオン)、アメリータ(歌)、ウィルツ(朗読)と15人編成の楽団(ヴァイオリン×5、ヴィオラ×2、チェロ×2、コントラバス、ギター、ピアノ、ドラムス、パーカッション×2)のみ。録音は60人編成のオーケストラで行われたにもかかわらずだ。そしてコーラス隊はどこにもいない。マイクもないしギターにシールドも刺さっていない。音と動きも微妙にずれている。これはそういう作品なのだ。そして、1972年12月にブエノスアイレスで収録されたシーンもかなりの比率で使用されていて、ほぼ1曲丸々のケースもある。

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これはスタジオの全景。

こうして完成した約45分のプログラムは、実際にドイツではテレビでオンエアーされたとのことだが(日付等は不明)、アルゼンチンではついに観ることは叶わず、そればかりか最終的にどのような形になったのか、当事者たちにもわからないままだった。ピアソラやフェレール、アメリータに手渡されたのは、71年12月に録音された時点での、音の悪いカセット・コピーのみで、しかも全曲ではなく抜粋版だったのである(私が1995年か1997年にブエノスアイレスを訪れた際に、ピアソラの盟友だったチェロのホセ・ブラガートからもらったカセットも、そこからのダビングだった)。

1975年5月、ついに最終的にピアソラとアメリータは決別の時を迎えてしまった。ピアソラとアメリータ自身が残した唯一のヴァージョンである『若き民衆』は、こうして完全に幻と化してしまったのだ。

一方、番組には一切登場しなかったフェレールは、1976年の『Horacio Ferrer y sus amigos』(Philips 5325)で「Los hijos del Río」を、1977年の『Horacio Ferrer en el Teatro del Notariado - Recital de versos y cantares』(Orfeo SULP 90.611)で「Canción de los jóvenes amantes」をそれぞれ取り上げた。前者はフェレールの朗読とベト・キンテーロスとアルフレド・サディの歌、後者はティト・サディの歌で収録されている(伴奏はギター)。

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2000年2月19日にNHK-BS2でオンエアーされた「世界・わが心の旅 アルゼンチン 自由なるタンゴへの道」は、アコーディオン奏者のcobaがブエノスアイレスを訪れ、ピアソラの足跡を辿るという内容だったが、そこで彼がフェレールの自宅を訪れ、『若き民衆』のカセットに聴き入るというシーンがあった。その場面でフェレールの朗読もちらっと聞こえて来たので驚いたのだが、改めて確認すると、あれはその場で彼自身が直接口にしていただけだった。カセットそのものは、まさに先の抜粋版そのものだったようだ。

ところが、恐らくその収録の時点で、フェレールは改訂版の『若き民衆』を舞台に乗せるべく、準備をしていたはずなのだ。2000年6月13日、エルサレム国際フェスティヴァルの一環として、同地のヘンリー・クラウン・シンフォニー・ホールで『若き民衆』は初演された。アルゼンチンからイスラエルに移住したエドゥアルド・アブラムソンのバンドネオン、スサーナ・リナルディの歌、オラシオ・フェレールの朗読、ルイス・ゴレリック指揮エルサレム交響楽団、ニュー・イスラエル・ヴォーカル・アンサンブルというラインナップだった。その後リナルディとフェレール以外はキャストを替えて、2001年にはアルゼンチンのコルドバ市にあるサン・マルティン劇場で、2003年にはラ・プラタのアルヘンティーノ劇場で上演。2005年2月にはリナルディとフェレール、オーケストラ指揮フアン・カルロス・クアチという布陣でレコーディングも行われた。ところがPichuco Recordsからのリリースは2011年までずれ込み、しかもほとんど流通せずに終わっている。雑誌「ラティーナ」では2013年2月号で西村秀人氏が「まもなく日本に入ってくるのではないかと思うが」と書かれているが、結局入荷はしなかったと思う。ただし音だけなら、Spotifyで聴くことはできる。

これら2000年以降の上演版では、フェレールによるテキストの改変、タイトルの変更、コーラスや歌詞の付加などが行われている。もちろん書いた本人が書き直すことは誰も否定できないだろうが、相方のピアソラは亡くなり、ドイツ放映版のオリジナルにはほとんど誰もアクセスできない状態なのだから、まずはオリジナルの忠実な再現を目指すべきではなかったか。

実はウルグアイ出身のピアニストで指揮者のパブロ・シンヘルが中心となって2002年3月にニューヨークで演奏されたヴァージョンは、ピアソラの71年当時のオリジナルの譜面に基づいたものだった。シンヘルといえば、2008年2月29日に東京オペラシティ コンサートホール:タケミツ メモリアルで行われた日本初演を思い出す方も多いだろう。小松亮太(バンドネオン)、カティエ・ビケイラ(歌)、齊藤一郎指揮による特別編成オーケストラ/合唱によるこの公演では朗読を担当したシンヘルは、ここでもオリジナルの形でやろうとしたが、版権を持つワーナー・チャペルが許可せず、フェレールらによる改変版の使用を強要されたという事情があったという。ただ、当日の録音を聴き直すと、オリジナルの雰囲気を再現することには成功しているように思える。

こうした中、アルゼンチンのコアなピアソラ研究家たちは、オリジナル版の入手に尽力する。チャンネル2は現存しないが、そこを吸収した企業にコンタクトを取り、2010年の終りには映像の入手を実現していた。それが巡り巡ってようやく私の手元にも届いたというわけである。

ドイツ放映版では、各曲のタイトル表記もドイツ語である。ドイツ語とスペイン語(と日本語訳)を併記する形で紹介しておこう(あらすじのみドイツ語は省略)。

El Pueblo Joven -Das junge Volk-
ORATORIO POPULAR von Astor Piazzolla

Erster Teil: DIE ERINNERUNGEN
1a Parte: LAS MEMORIAS
第1部:さまざまな記憶
Relata en una Overtura y cinco Memorias
la vida del pueblo que habita las orillas del Río de La Plata.
序曲と5つの記憶から、ラプラタ川の縁に住む民衆の人生が語られる

1. OUVERTÜRE: DES FLUSSES SO GROSS WIE DAS MEER
OVERTURA: DEL RÍO GRANDE COMO UN MAR
序曲:海のような大河から

2. Erste Erinnerung: BRUDER, UND SO BEGINNT DIESE GESCHICHTE
MEMORIA 1: HERMANO ESTA HISTORIA SE ANUNCIA
記憶1:兄弟よ、この物語は告げられた

3. Zweite Erinnerung: DIE KINDER DES FLUSSES
MEMORIA 2: LOS HIJOS DEL RÍO
記憶2:河の子どもたち

4. Dritte Erinnerung: VON DEN KLEINEN ENTTÄUSCHUNGEN
MEMORIA 3: DE LAS TRAICIONES PEQUEÑAS
記憶3:小さな裏切りから

5. Vierte Erinnerung: UND DAS WASSER WURDE VON TRAURIGKEIT ERFÜLLT
MEMORIA 4: Y EL AGUA SE PUSO TRISTE
記憶4:そして水は悲しみに

6. Fünfte Erinnerung: DIE FISCHER, DIE AUS DEM UNBEKANNTEN KAMEN
MEMORIA 5: LOS PESCADORES DEL MISTERIO
記憶5:神秘の漁師たち

Zweiter Teil: DIE BOTSCHAFTEN
2a Parte: LOS MENSAJES
第2部:さまざまなメッセージ
Cuenta luego en un Intermedio y siete Mensajes
la vida de un nuevo pueblo desconocido que habita en una gruta debajo del mismo río.
幕間と7つのメッセージから、同じ河の下の洞窟に住む見慣れない新しい民衆の人生が語られる

1. DAS ZWISCHENSPIEL DER GROSSEN, LEEREN MUSCHEL
INTERMEDIO: DEL GRAN CARACOL VACÍO
幕間:空っぽで巨大な貝殻から

2. Erste Botschaft: DAS JUNGE VOLK
MENSAJE 1: EL PUEBLO JOVEN
メッセージ1:若き民衆

3. Zweite Botschaft: ICH GLAUBE, MEINE JUNGE GELIEBTE
MENSAJE 2: CREO AMADA MÍA
メッセージ2:わが恋人を信ずる

4. Dritte Botschaft: DIE JUNGEN LIEBENDEN
MENSAJE 3: LOS JÓVENES AMANTES
メッセージ3:若き恋人たち

5. Vierte Botschaft: DAS HALLELUJA
MENSAJE 4: LOS ALELUYAS
メッセージ4:ハレルヤ

6. Fünfte Botschaft: DAS FEUERSEGEL
MENSAJE 5: LA VELA DE FUEGO
メッセージ5:炎の帆船

7a. Sechste Botschaft: DIE MITTEILUNG
MENSAJE 6: LOS COMUNICADOS
メッセージ6:公式声明

7b. Siebte Botschaft: AN EINEM FRÜHLINGSMORGEN SÜDLICH DES ÄQUATORS
MENSAJE 7: UNA MAÑANA DE OCTUBRE
メッセージ7:ある十月の朝

「公式声明」と「ある十月の朝」は切れ目なく繋がっている。ピアソラらが受け取った音の悪い抜粋版カセットに収録されていたのは「海のような大河から」「河の子どもたち」「そして水は悲しみに」「神秘の漁師たち」「若き民衆」「若き恋人たち」「ハレルヤ」「公式声明/ある十月の朝」である。

テレビ放映版のうち「若き恋人たち」のみ、YouTubeに動画がアップされているのでご覧ください。


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