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August 16, 2017

キンテート・レアルによる日本の歌謡曲集

2002年に現役は引退していたものの、昨年6月15日に100歳の誕生日を迎え、8月19日に世を去った(そうか、もうすぐ1年になるわけだ)アルゼンチンのピアニスト/作編曲家/楽団指揮者のオラシオ・サルガン。その強烈な個性によってタンゴ史に燦然と輝いた、真の巨匠である。クラシックやジャズ、ブラジルのショーロなどからの影響を見事に消化し、独特のシンコペーションを効かせたリズムで表現したが、一度書き上げた編曲は二度と手を加える必要がないほどの完全主義者でもあった。柱となった活動形態は、オルケスタ・ティピカ(1944~57年、以降は歌手の伴奏も含む録音やステージ用の臨時編成のみ)、デュオ・サルガン=デ・リオ(1957年から引退まで)、キンテート・レアル(1959~69年頃まで断続的、1987年以降は引退まで)の3つである。

オルケスタ解散後、生涯の盟友となるエレキ・ギターのウバルド・デ・リオとの運命的な出会いにより新たな方向性を見出したサルガンだが、そのサルガン=デ・リオが、ヴァイオリンのエンリケ・フランチーニとコントラバスのラファエル・フェロとのデュオ(奇妙な編成だ)と合体、そこにバンドネオンのペドロ・ラウレンスを迎え入れることでスタートしたのが、キンテート・レアル(王様たちの五重奏団)である。日本には1964年(コントラバスはキチョ・ディアスに交替)、1966年(以降コントラバスはオマール・ムルタ)、1969年の3回来日したこともあり、日本の古くからのファンにはとりわけ馴染みが深い。

3回目となった彼らの日本ツアーは、1969年1月9日のサンケイ・ホール(東京)を皮切りに全国を回り、再びサンケイ・ホールでの2月18日のお別れコンサートまで30公演近くが行われた。彼らは初来日時にも、1964年5月30日から6月9日にかけての4回のセッションで24曲を録音し、日本コロムビアから『日本のキンテート・レアル I』(CBS PSS-93-C)、『同 II』(PSS-94-C)としてリリースされていたが、1969年にもいくつかのシチュエーションでの録音を行っている。
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まず、1月29日に大平スタジオにて『キンテート・レアル イン スタジオ』(Teac ATP-2010)全14曲を録音。これはデッキメーカーのティアックが新たに売り出すオープンリール・テープとして制作された。私は現物は持っておらず(オープンデッキもないし)、以前ダビングしてもらったものをCD-Rに焼いて持っているだけだが、同じレパートリーを(もちろん同じアレンジで)録音することが多いサルガンが、ここでしか聴けない珍しい作品として「Comme il faut(コム・イル・フォー)」(カルロス・ディ・サルリ楽団の演奏で有名なエドゥアルド・アローラス作品)と「Contrabajeando(コントラバヘアンド)」(アストル・ピアソラとアニバル・トロイロ合作)を取り上げているのが興味深い。自作とメンバーの作品以外は基本的に古典ばかりを料理しているサルガンだけに、ピアソラ作品に挑戦したのは、後にも先にもこれが唯一。オープンリールのみの発売だったからなのか、当時の雑誌「中南米音楽」の新譜紹介には見当たらなかったが、1969年12月号のグラビア・ページにその時の様子が紹介されていたので、ここに転載させていただく。この音源はいっさい復刻の機会に恵まれていないが、山本幸洋さんが雑誌「レコード・コレクターズ」本年2月号『私の収穫2016』で、「タンゴの偉人が日本で残した世界に誇るべきオープン・リール作品」の見出し付きで紹介されているので、参照されたい。
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一連の録音のうちのハイライトは、2月5日に日本コロムビアの第2スタジオで敢行されたダイレクト・カッティング盤のレコーディングだろう。日本におけるダイレクト・カッティングの先駆けとなったこの録音では、45回転30センチ盤2枚用に片面3曲ずつが連続録音された。白いジャケットの『日本のキンテート・レアル(1)』(Columbia 45PX-2006-AX)、黒いジャケットの『同 (2)』(45PX-2007-AX)として1969年6月に発売、これはオーディオ・ファンの間でもたいそう評判になったようで、中古レコードもよく見かけるので入手は比較的容易だろう。どうでもいいことだが、1964年の2枚バラ売りとここでも同じタイトルを付けるのはいかがなものか。ダイレクト・カッティングと同時にアナログ・マスターにも録音され、1970年1月には通常の1枚もののLP『日本のキンテート・レアル』(YS-2259-AX)としても発売。ダイレクト・カッティング盤が2,000円×2だったのに対し、こちらは1,900円と買いやすくなっていた。1973年2月には『キンテート・レアル/アルゼンチン・タンゴの名門』(XS-157-AX)として再発されたが、2,200円に値上がり。なお、この音源は現在ではCD化されている。
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さて、前置きが大変長くなった。今日紹介するのは、もう1枚の鬼っ子のようなアルバムである。長年探していたこのアルバムが昨日、遂に350円というお手頃価格で手に入ったので紹介する次第。まずは、ツアーに同行した高橋忠雄氏が「中南米音楽」1969年5月号に寄稿した『キンテート・レアルのこと その2』から引用する(すべて原文ママ)。

二月になってからはあまり遠い所へ行く旅はなく、レコーディングや、テレビのビデオどりにいそがしい。クラウン・レコードの注文で、一月現在自社のレコードでヒットしている流行歌ばかりをタンゴにアレンジして吹き込んでくれというので、これにはアレンジャーのサルガンも大分よわっていた。アレンジ料はいくらでも出してくれるのだが、エンペラドールとしては時間もなし、体の調子もまだはっきりとしないし、大分ノイローゼになったらしい。でもなんとか十二曲程でっち上げてレコーディングしたが、ピンキラの「恋の季節」や島倉の「愛のさざなみ」などが中々面白い。ピアノ・フォルテのつけ方、メロディーのくづし方が日本人と全く違うし、それが作った方のねらいでもあろう。しかし今から十年前には、アルゼンチン最高のプレーアーによる五重奏が日本の流行歌を演奏するとは、誰も想像出来なかったことである。進歩か退歩か。とにかく変化であることはたしかだ。ポピュラーとはそうしたものなのだろう。

文中の「エンペラドール」とは、サルガンの風貌が昭和天皇に似ていることから付けられた呼び名である。また、「体の調子」とは、1月半ばに高熱を出し、鹿児島公演をサルガン抜きの4人で乗り切ったりしたことなどから来ている。高橋氏が触れているこの流行歌集(この「流行歌」という呼び方自体が死語なのだろうか。私は好きなのだが、確かに歌謡曲が「流行」しなくなってからずいぶん経つ)、録音日は不明だが、2月5日のコロムビアでのダイレクト・カッティングの前後だろう。そして早くも3月には、アルバムが出た。それがこの写真のものである。
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ムード音楽集などにありがちな、女性のヌードを使用したジャケットだが、エロ・ジャケとしてもあまり褒められた出来ではない。裏にはメンバーの写真と曲目が載っている。
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昨日手に入れて、オリジナル歌手を調べる前に、曲名だけ見て何人わかるか、自分で自分にクイズを出してみた。「今は幸せかい」「霧にむせぶ夜」「愛のさざなみ」「花と蝶」「夕月」はすぐに判った。ブルー・コメッツは全シングル収録のCD『THE TALES OF BLUE COMETS~PAST MASTERS 1965-1972~』を持っていたので、脱GS宣言をして歌謡曲路線に転換した直後の2曲である「さよならのあとで」「雨の赤坂」も問題なかったが、音盤が手元にあるのは結局この2曲のみだった。肝心のタイトル曲である「年上の女」はすぐに判らず、森進一の「♪だめよ だめ だめ いけないと」がそうだと気付いて、ようやく納得した。「釧路の夜」は東京ロマンチカだっけ? それは「小樽のひとよ」だ。「知りすぎたのね」は菅原洋一? それは「知りたくないの」だ。ロス・インディオスでヒットした「知りすぎたのね」のオリジナルがロミ・山田だとは知らなかった。まったく見当も付かなかったのが「星は濡れている」で、調べてみたら、瀬川瑛子がまだ瀬川映子を名乗っていた(そのことも知らなかった)時代、19歳の時に出したデビューから2枚目のシングル「恋に死にたい」のB面だと。それでは判るわけがないな。なお、この曲は1970年にカップリングを替えてA面で出し直されている。というわけで、せっかくなので各曲の作詞・作曲者とオリジナル歌手、シングルの発売年月を以下にまとめてみた。

『年上の女 ――キンテート・レアル・イン・赤坂――』(Crown GW-7003)
1969年2月録音、3月発売

A面
1. 今は幸せかい
  作詞・作曲:中村泰士
  歌:佐川満男(1968・10)
2. 雨の赤坂
  作詞:橋本 淳/作曲:三原綱木
  歌と演奏:ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(1968・12)
3. 年上の女
  作詞:中山貴美/作曲:彩木雅夫
  歌:森 進一(1968・11)
4. さよならのあとで
  作詞:橋本 淳/作曲:筒美京平
  歌と演奏:ジャッキー吉川とブルー・コメッツ(1968・10)
5. 霧にむせぶ夜
  作詞:丹古晴己/作曲:鈴木 淳
  歌:黒木 憲(1968・4)
6. 愛のさざなみ
  作詞:なかにし礼/作曲:浜口庫之助
  歌:島倉千代子(1968・7)
7. LA CUMPARSITA

B面
1. 花と蝶
  作詞:川内康範/作曲:彩木雅夫
  歌:森 進一(1968・5)
2. 恋の季節
  作詞:岩谷時子/作曲:いずみたく
  歌:ピンキーとキラーズ(1968・7)
3. 釧路の夜
  作詞・作曲:宇佐英雄
  歌:美川憲一(1968・7)
4. 知りすぎたのね
  作詞・作曲:なかにし礼
  歌:ロミ・山田(1967・9)/ロス・インディオス(1968・8)
5. 夕月
  作詞:なかにし礼/作曲:三木たかし
  歌:黛 ジュン(1968・9)
6. 星は濡れている
  作詞:真木たつみ/補作詞:水沢圭吾/作曲:新井利昌
  歌:瀬川映子(1967・12)(「恋に死にたい」B面。1970年8月にA面として再発)
7. EL CHOCLO

先の高橋氏の文中では、クラウンが「自社のレコードでヒットしている流行歌」を依頼してきたとあるが、クラウン専属は美川憲一と瀬川映子のみで、佐川満男、ブルー・コメッツ、島倉千代子はコロムビア、森進一とロミ・山田はビクター、黒木憲と黛ジュンは東芝、ピンキーとキラーズはキングと、ライヴァル会社ばかりである。便乗で売れれば何でもよかったのだろう。また、各面の最後に申し訳程度に有名なタンゴが入っているが、「エル・チョクロ」の作者がレスター・アレンとロバート・ヒルとなっていたのにはあきれた。この曲を書いたのはアンヘル・ビジョルドである。アレンとヒルの二人は、ルイ・アームストロングらがヒットさせたこの曲の英語版「Kiss of Fire」の英語詞を書いただけであり、クラウンの担当者のタンゴへの認識の程度が知れる。また、60年代後半の日本では、アルゼンチンの楽団に日本の曲を演奏させる企画がほかにもいくつもあり、フルビオ・サラマンカ楽団(キング)、フロリンド・サッソーネ楽団(東芝)、フアン・ダリエンソ楽団の中心メンバー(ピアノのフアン・ポリート、バンドネオンのカルロス・ラサリ、ヴァイオリンのベルナルド・ベベルら)によるキンテート・ブエノスアイレス(コロムビア)などのレコードが出ているが、それらがどれも曲目解説付きだったのに対し、『年上の女』では高橋氏によるグループについてのコメント、ごく簡単なメンバー紹介(ベースのオマール・ムルタのスペルが間違っている)が付いているだけで、丁寧に作られた感じが希薄だ。もっとも、最新ヒットばかりなので、説明の必要はないという判断もあったのかも知れないし、歌詞のさわりは載っている。

さて、肝心の演奏内容だが、これがなかなか面白い。大して期待せずに聴き始めたのだが、もう7~8回ぐらいリピートしても全然飽きないのだ。サルガンが日本の曲をアレンジして録音するのは、実はこれが初めてではない。1966年7月には、日本からの要請によってアルゼンチンでオルケスタ編成で録音した『燦めくアルゼンチン・タンゴ~オラシオ・サルガン日本の印象』(Philips SFX-7045)が出ている。そこでは「誰よりも君を愛す」「君恋し」などやや古めの流行歌と、「黒田節」「荒城の月」のような民謡や明治時代の歌などが収められていた。それに対して『年上の女』は1967~68年というリアルタイムの曲のみが対象で、微妙にモダンな感じが、キンテート・レアルの小編成とマッチしているように感じられるのだ。さすがに「恋の季節」をタンゴにアレンジするはかなり無理があるが、とにかくコンディションの良くなかったサルガンのヤケクソな感じがうまく作用したように思える。
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これが当時どのような評価だったか見ようと、「中南米音楽」をめくってみたら、先の高橋氏の記事以外、まったくスルーだった。影も形もなし。1970年2月号掲載のコロムビアからの(ダイレクト・カッティング録音の)通常盤の紹介で、高場将美氏は「げんざい発売中のLPというとコロムビアのダイレクト・カッティング盤二枚だけ、あとはティアックのテープだけである」とまで明言されている。本当に無いものにしたかったのか、クラウンが毎月タンゴやラテンを定期的にリリースするレコード会社ではなく、広告も出さなかった故の「大人の事情」だったのか、もはや確認するすべはない。

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August 13, 2017

ケビン・ジョハンセンと仲間たち(1)

周期的に(?)更新の止まるこのブログ、今回は過去に例がないほど間が開いてしまい、ほぼ2年振りの更新となってしまった。このブログでは2012年3月以来2015年1月まで75回+αという長期にわたり、フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズについての連載を続け、2015年6月25日~7月5日に来日公演の実現したミュージカル『ジャージー・ボーイズ』の開催に合わせる形で、拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』(スペースシャワーブックス)としてまとめることができたわけだが、その盛り上がりが過ぎたところでブログの更新もストップ。本の告知を兼ねて始めたFacebookの方では、なにかあればポツポツと書いたりしているが、どんどん流れてしまうし、資料的な内容の保存には向いていないのは確かだなと思いつつ、新たに書きたいテーマはあってもなかなか取っ掛かりがつかめないまま、気が付けば2年、という感じである。年を取るとともに、こうした時間の流れも速くなるのだろうか。

なお、『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』出版後に見つかった種々の誤りについては、過去に正誤表を掲載していたが、先日とある方が細かい修正点をメールで送ってくださったので、近々反映させていただく予定である。

さて、この2年の間の個人的な音楽的興味は、アルゼンチンやウルグアイの主に2000年以降の音楽に傾いているので、しばらくはそのあたりを中心に書いていきたいと思う。もともと私は80年代半ば以降、アストル・ピアソラから始まってタンゴ全体に深く入り込む一方、当時は日本ではまったく知られていなかったアルゼンチンのロックにも注目するようになっていた。そもそも私が初めて雑誌「ラティーナ」に書いた記事は、今読むとまったく赤面ものながら、『タンゴとロックの無関係な関係』(1985年12月号)というもので、そこでは同年8月に初めてブエノスアイレスを訪れた際に買ってきたチャーリー・ガルシアやニト・メストレ、レオン・ヒエコなどのレコードを、タンゴの話題と並べて紹介していた。90年代後半になり、アルゼンチンのみならずラテンアメリカのロックのCDが少しずつ日本にも入ってきて、ようやく注目を集め始めた時期には、「ラティーナ」でもいろいろ特集記事などで紹介させてもらったり、キティから国内盤で出た『クイーンに捧ぐ』というラテンアメリカ諸国のロック系アーティストたちによるオムニバスのライナーを担当したりした。

00年代に入り、個人的ないくつかの事情から、現地を訪れたり新譜を片っ端から買ったりすることがままならなくなったのだが、ちょうどその頃から、主にアルゼンチンで新しい動きが起こる。一つは、フアナ・モリーナらに代表される、いわゆるアルゼンチン音響派(これは日本独自の呼び名だが)の台頭。単にシーンを賑やかにするだけでなく、日本の先鋭的なミュージシャンたちとの直接的な交流などを通して、新しいファン層の獲得に成功している。もう一つは、従来の概念に捕らわれないフォルクローレの新世代の登場で、これはアカ・セカ・トリオやカルロス・アギーレあたりが代表だろう。新世代ではないが、リリアーナ・エレーロもシーンを牽引する役割を担っている。一方メインストリームのロックでは、2012年に惜しくも亡くなったスピネッタが、とりわけ2001年の『Silver Sorgo』以降傑作を連発し、圧倒的な存在感を改めて示していたことは忘れがたい。

だが、私がこの2年近く注目しているのは、もともと心酔していたスピネッタはともかく、これらの動きとは少し異なった、もう少しポップな部分がメインとなっている。きっかけは、2015年9月にたまたま、ウルグアイの人気者であるルベン・ラダの『Amoroso pop』(2013年)を買ったことだった。コンガを叩きながらカンドンベを歌う陽気なラダおじさんのアルバムは、2000年の『Quién va a cantar』までだいたい聴いていたが、それ以降ご無沙汰だったので、最近はどんなかなと思ったら、これがポップ感覚全開の傑作で、ハマってしまった。これを見過ごしては大変と、リスナーとしての空白期間に出ていた彼のアルバムをあわてて集めることになり、そこから新たな旅が始まったわけである。参加作、関連作を含めてアルバム60枚ほどを一通り聴き、整理していたところで、タイミングよく「ラティーナ」2015年12月号でウルグアイ特集をやるというのでまとめたのが、『黒い魔術師ルベン・ラダ―変幻自在の軌跡をたどる―』という5ページの記事だった。
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で、今日のテーマはルベン・ラダかというと、実はそうではない。ラダのレコーディング・アーティストとしてのキャリアはまだ10代だった1961年から始まっていて、参加作も把握しきれないのだが、判明している範囲でいくつか集めていた中に、ケビン・ジョハンセン+ザ・ナダの『City Zen』(2004年)というアルバムがあった。それを聴いて、今度はそのケビンたちの、人懐っこいのにぶっ飛んだ音楽にすっかりやられてしまった。これほど自分のツボにはまったアーティストも久しくなかったと言えるほど、彼らとの出会いは衝撃的だった。というわけでここからしばらくは、日本ではほとんど無名の彼らについて主に紹介していきたい。
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Kevin Johansenは、極めて数少ない日本でのメディアへの露出では、「ケビン・ヨハンセン」と表記されることがほとんどである(「ケヴィン…」表記は稀)。同じ性では、元ニューヨーク・ドールズのデイヴィッド・ヨハンセンあたりが有名だが、そもそもKevin Johansenというアングロサクソン的な名前の持ち主はどこの出身かというと、これが米国アラスカ州フェアバンクスなのである(1964年生まれ)。ケビンの父ケネス・ジェイムズ・ヨハンセンはコロラド州デンバー生まれの米国人。母マリア・グローリア・カルベットはブエノスアイレス生まれのアルゼンチン人で、19歳の時に奨学金を得てコロラドのボールダーに留学し、ケネスと恋に落ちた。良心的兵役忌避者だったケネスはヴェトナム戦争への参加を拒否する代わりに、フェアバンクスで3年間政府のための事務仕事に就くことになり、長男ケビンはそこで生まれたというわけだ。ケビンが4歳の頃に一家はデンバーに戻り、1年後にアリゾナ州テンピに移る。そこで妹が生まれるが両親は離婚。メキシコ人と再婚した母親とともにケビンはサンフランシスコに落ち着く。そこで少年時代を過ごしたケビンにとって、キャット・スティーヴンズやジャクスン5などが最初のお気に入りだったという。そして1976年、12歳でブエノスアイレスへ。1977年から79年まではウルグアイのモンテビデオで過ごしたが(そこで最初にギターを習った)、以降25歳までブエノスアイレスで過ごすことになる。母親が聴いていたレコードでタンゴやフォルクローレに多少の馴染みがあったケビンは、アルゼンチンの文化や習慣を受け入れると共に、スペイン語も完璧に自分のものにしていった(ちなみにアルゼンチンではJohansenは「ジョハンセン」と発音されるため、拙ブログではその表記で統一させていただく)。

一家が移り住んだ1976年のアルゼンチンは軍事政権下にあり、母親はリベラルだったこともあり、彼らはとても困難な時期を過ごしたとのことだ。1982年に起きた英国とのマルビーナス紛争(英国側の呼び名はフォークランド紛争)に敗れたことで軍政はようやく崩壊するが、ちょうどその頃高校を卒業したケビンは自分で歌を書くようになり、12歳の時からの親友でキーボードを弾くフリアン・ベンハミンらと、ニュー・ウェイヴ志向のポップなバンド、インストゥルクシオン・シビカを結成する。次回は、そのインストゥルクシオン・シビカの2枚のアルバムを紹介する。(続く)

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