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August 13, 2017

ケビン・ジョハンセンと仲間たち(1)

周期的に(?)更新の止まるこのブログ、今回は過去に例がないほど間が開いてしまい、ほぼ2年振りの更新となってしまった。このブログでは2012年3月以来2015年1月まで75回+αという長期にわたり、フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズについての連載を続け、2015年6月25日~7月5日に来日公演の実現したミュージカル『ジャージー・ボーイズ』の開催に合わせる形で、拙著『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』(スペースシャワーブックス)としてまとめることができたわけだが、その盛り上がりが過ぎたところでブログの更新もストップ。本の告知を兼ねて始めたFacebookの方では、なにかあればポツポツと書いたりしているが、どんどん流れてしまうし、資料的な内容の保存には向いていないのは確かだなと思いつつ、新たに書きたいテーマはあってもなかなか取っ掛かりがつかめないまま、気が付けば2年、という感じである。年を取るとともに、こうした時間の流れも速くなるのだろうか。

なお、『フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズのすべて』出版後に見つかった種々の誤りについては、過去に正誤表を掲載していたが、先日とある方が細かい修正点をメールで送ってくださったので、近々反映させていただく予定である。

さて、この2年の間の個人的な音楽的興味は、アルゼンチンやウルグアイの主に2000年以降の音楽に傾いているので、しばらくはそのあたりを中心に書いていきたいと思う。もともと私は80年代半ば以降、アストル・ピアソラから始まってタンゴ全体に深く入り込む一方、当時は日本ではまったく知られていなかったアルゼンチンのロックにも注目するようになっていた。そもそも私が初めて雑誌「ラティーナ」に書いた記事は、今読むとまったく赤面ものながら、『タンゴとロックの無関係な関係』(1985年12月号)というもので、そこでは同年8月に初めてブエノスアイレスを訪れた際に買ってきたチャーリー・ガルシアやニト・メストレ、レオン・ヒエコなどのレコードを、タンゴの話題と並べて紹介していた。90年代後半になり、アルゼンチンのみならずラテンアメリカのロックのCDが少しずつ日本にも入ってきて、ようやく注目を集め始めた時期には、「ラティーナ」でもいろいろ特集記事などで紹介させてもらったり、キティから国内盤で出た『クイーンに捧ぐ』というラテンアメリカ諸国のロック系アーティストたちによるオムニバスのライナーを担当したりした。

00年代に入り、個人的ないくつかの事情から、現地を訪れたり新譜を片っ端から買ったりすることがままならなくなったのだが、ちょうどその頃から、主にアルゼンチンで新しい動きが起こる。一つは、フアナ・モリーナらに代表される、いわゆるアルゼンチン音響派(これは日本独自の呼び名だが)の台頭。単にシーンを賑やかにするだけでなく、日本の先鋭的なミュージシャンたちとの直接的な交流などを通して、新しいファン層の獲得に成功している。もう一つは、従来の概念に捕らわれないフォルクローレの新世代の登場で、これはアカ・セカ・トリオやカルロス・アギーレあたりが代表だろう。新世代ではないが、リリアーナ・エレーロもシーンを牽引する役割を担っている。一方メインストリームのロックでは、2012年に惜しくも亡くなったスピネッタが、とりわけ2001年の『Silver Sorgo』以降傑作を連発し、圧倒的な存在感を改めて示していたことは忘れがたい。

だが、私がこの2年近く注目しているのは、もともと心酔していたスピネッタはともかく、これらの動きとは少し異なった、もう少しポップな部分がメインとなっている。きっかけは、2015年9月にたまたま、ウルグアイの人気者であるルベン・ラダの『Amoroso pop』(2013年)を買ったことだった。コンガを叩きながらカンドンベを歌う陽気なラダおじさんのアルバムは、2000年の『Quién va a cantar』までだいたい聴いていたが、それ以降ご無沙汰だったので、最近はどんなかなと思ったら、これがポップ感覚全開の傑作で、ハマってしまった。これを見過ごしては大変と、リスナーとしての空白期間に出ていた彼のアルバムをあわてて集めることになり、そこから新たな旅が始まったわけである。参加作、関連作を含めてアルバム60枚ほどを一通り聴き、整理していたところで、タイミングよく「ラティーナ」2015年12月号でウルグアイ特集をやるというのでまとめたのが、『黒い魔術師ルベン・ラダ―変幻自在の軌跡をたどる―』という5ページの記事だった。
44_amorosopop_2

で、今日のテーマはルベン・ラダかというと、実はそうではない。ラダのレコーディング・アーティストとしてのキャリアはまだ10代だった1961年から始まっていて、参加作も把握しきれないのだが、判明している範囲でいくつか集めていた中に、ケビン・ジョハンセン+ザ・ナダの『City Zen』(2004年)というアルバムがあった。それを聴いて、今度はそのケビンたちの、人懐っこいのにぶっ飛んだ音楽にすっかりやられてしまった。これほど自分のツボにはまったアーティストも久しくなかったと言えるほど、彼らとの出会いは衝撃的だった。というわけでここからしばらくは、日本ではほとんど無名の彼らについて主に紹介していきたい。
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Kevin Johansenは、極めて数少ない日本でのメディアへの露出では、「ケビン・ヨハンセン」と表記されることがほとんどである(「ケヴィン…」表記は稀)。同じ性では、元ニューヨーク・ドールズのデイヴィッド・ヨハンセンあたりが有名だが、そもそもKevin Johansenというアングロサクソン的な名前の持ち主はどこの出身かというと、これが米国アラスカ州フェアバンクスなのである(1964年生まれ)。ケビンの父ケネス・ジェイムズ・ヨハンセンはコロラド州デンバー生まれの米国人。母マリア・グローリア・カルベットはブエノスアイレス生まれのアルゼンチン人で、19歳の時に奨学金を得てコロラドのボールダーに留学し、ケネスと恋に落ちた。良心的兵役忌避者だったケネスはヴェトナム戦争への参加を拒否する代わりに、フェアバンクスで3年間政府のための事務仕事に就くことになり、長男ケビンはそこで生まれたというわけだ。ケビンが4歳の頃に一家はデンバーに戻り、1年後にアリゾナ州テンピに移る。そこで妹が生まれるが両親は離婚。メキシコ人と再婚した母親とともにケビンはサンフランシスコに落ち着く。そこで少年時代を過ごしたケビンにとって、キャット・スティーヴンズやジャクスン5などが最初のお気に入りだったという。そして1976年、12歳でブエノスアイレスへ。1977年から79年まではウルグアイのモンテビデオで過ごしたが(そこで最初にギターを習った)、以降25歳までブエノスアイレスで過ごすことになる。母親が聴いていたレコードでタンゴやフォルクローレに多少の馴染みがあったケビンは、アルゼンチンの文化や習慣を受け入れると共に、スペイン語も完璧に自分のものにしていった(ちなみにアルゼンチンではJohansenは「ジョハンセン」と発音されるため、拙ブログではその表記で統一させていただく)。

一家が移り住んだ1976年のアルゼンチンは軍事政権下にあり、母親はリベラルだったこともあり、彼らはとても困難な時期を過ごしたとのことだ。1982年に起きた英国とのマルビーナス紛争(英国側の呼び名はフォークランド紛争)に敗れたことで軍政はようやく崩壊するが、ちょうどその頃高校を卒業したケビンは自分で歌を書くようになり、12歳の時からの親友でキーボードを弾くフリアン・ベンハミンらと、ニュー・ウェイヴ志向のポップなバンド、インストゥルクシオン・シビカを結成する。次回は、そのインストゥルクシオン・シビカの2枚のアルバムを紹介する。(続く)

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