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November 24, 2014

フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズ(73) アルバム『BORN TO WANDER』A面紹介

しばらくぶりの更新となったが、シングル紹介を続ける前に、紹介していなかったフィリップス第1弾アルバム『BORN TO WANDER』を2回に分けて詳しくご紹介しておく。フォーク・アルバムということで敬遠気味だったのだが、じっくり聴いてみるとそれなりに評価すべき点も多々あった。

これまでの記事と表記の仕方を変えている部分もあり、一部過去に書いたものと重複しているが、あまり気にしないでいただきたい。

BORN TO WANDER
Ph129m_1

Ph129s_1

Ph129s_2

A1) BORN TO WANDER (Al Peterson)
A2) DON'T CRY, ELENA (Bob Gaudio)
A3) WHERE HAVE ALL THE FLOWERS GONE (Pete Seeger)
A4) CRY MYSELF TO SLEEP (Bob Crewe - Bob Gaudio)
A5) A BALLAD FOR OUR TIME (Lou Stallman - Sid Jacobson)
A6) SILENCE IS GOLDEN (Bob Crewe - Bob Gaudio)
B1) NEW TOWN (Phil Ochs)
B2) GOLDEN RIBBON (Bob Gaudio)
B3) LITTLE PONY (Get Along) (Bob Gaudio - Nick Massi)
B4) NO SURFIN' TODAY (Bob Crewe - Bob Gaudio)
B5) SEARCHING WIND (Bob Crewe - Bob Gaudio)
B6) MILLIE (Bob Gaudio)
THE 4 SEASONS Featuring the "Sound of Frankie Valli"
Produced by: Bob Crewe
Arranged and Conducted by: Charles Calello
Vocal Arrangements: Nick Massi
Engineer: Gordon Clark
Studio: Stea-Philips, NYC
Philips PHM 200-129 (mono) / PHS 600-129 (stereo) [February 1964]

フィリップスからの第1弾アルバム『ボーン・トゥー・ワンダー』は2曲を除き、1964年1月にステア=フィリップス・スタジオで録音された。ジャケットには「フォークの香りただよう、柔らかで魂のこもったバラード集」と大きく書かれている。ジャケット写真の雰囲気はとても良いのだが、1950年代末以来、それこそ学生を中心に流行していたフォークは、フォー・シーズンズの背景とも個性ともかなり距離があるようにも感じる。このアルバムの制作に至った背景を探るため、まずはタイトル曲の作者のストーリーを紹介する。

1940年にアイオワ州のデ・モインに生まれたアラン・ピータースンは、各地を転々としながら育った。1958年、名門美術大学であるロードアイランド造形大学に入学すると、歌える学生仲間たちと4人組のア・カペラ・グループを作って、キャンパスやコーヒー・ハウスなどでフォーク・ソングを歌うようになった。フォーク・ブームの当時は、似たようなグループがあちらこちらに自然発生していたのだ。1961年には5人目のメンバーとしてギター奏者を迎え、ザ・ヴィブラートスを名乗った(この名称のグループは、時代を超えてほかにいくつもある)。

1962年、彼らは自主制作LPの制作資金を調達するためのコンサートを開き、アルバムはボストンで録音された。そして出来上がったレコードがニューヨークのボブ・クルーの元に届き、クルーは彼らと3年間のマネージメントおよびレコーディングの契約を結ぶ。

フランキー・ヴァリとボブ・ゴーディオから歌唱指導を受け、ザ・ロード・アイランダーズと名付けられたグループは、ワーナー・ブラザーズにシングルを録音する。

5280a

5280b

A) BORN TO WANDER (Al Peterson) EX12504
B) SEARCHING WIND (Bob Crewe - Bob Gaudio) EX12502
THE RHODE ISLANDERS
A Bob Crewe Production
Arr. & Cond. By Chas. Calello
Warner Bros. 5280 [June 1962]

「ボーン・トゥー・ワンダー」は、ピータースンが1961年の夏休みにギターを弾きながら作った曲。リード・ヴォーカルはピータースンで、他のメンバー(男女混成)がハーモニーを付けた。アレンジはチャールズ・カレロが手掛けている。伴奏はアコースティック・ギター主体ではあるが、オルガンやホーン、ベルなども使われる。コーラスもフォークというよりドゥーワップっぽさがあり、このあたりは、カレロがただのフォークには終わらせなかったということだろう。

カップリングの「サーチング・ウインド」はクルーとゴーディオが用意した。こちらはコーラス主体で歌われるが、ベース・ヴォーカルが目立っていたり、女性のファルセットによるハミングも聞かれたり、やはりフォークを超越した面が感じられる。フォー・シーズンズ版よりテンポは遅め。

フランキーとボブはバックで歌ってはいないが、セッションの間コントロール・ルームにいて、レコーディングを見守っていた。ピータースンによればこの時フランキーは、自分の小さな子供たちをスタジオに連れてきてメンバーに引き合わせたそうで、彼らがビッグになると思っていたようだ。

だがレコードはヒットせず、オーヴァープロデュースだったと感じたクルーは、あとは自分たちでやるようにと、契約を解除した。そして大学卒業と共に、もともとプロの音楽家の集まりではなかったグループは解散、メンバーたちはそれぞれの道を歩む。

ヴィジュアル・アーティスト/詩人として名を成すことになるピータースンの創作意欲は既に音楽から詩へと移行していて、「ボーン・トゥー・ワンダー」は彼の唯一の音楽作品となった。

1963年から64年までイタリアに滞在していたピータースンが帰国してみると、自分たちのコーチ役を買って出てくれていたフランキーとボブが、フォー・シーズンズとして有名になっていることを知る。そればかりか、自分の曲を録音し、タイトルに冠したフォーク・アルバムまで出ていることに驚いた。ピータースンはそんなことは何も知らされていなかったのである。

本記事執筆にあたり、私からのメールでの質問に丁寧に答えてくれたピータースンの見方では、1963年にはフォーク・ソング・ブームは既に曲がり角に差し掛かっていたため、クルーはブームに便乗するには今しかないと感じて、このアルバムの制作に踏み切ったということだ。

あとは、とてもフォークのイメージとは結びつかない黒人音楽主体のヴィー・ジェイから、白人寄りで落ち着いた雰囲気もあるフィリップスに移ったことも、こういったアルバムの制作しやすさに繋がったのかも知れない。ボブ・クルーを中心とした“チーム”によるプロダクション・ワーク自体にはとりわけ大きな変化はなかったとしてもだ。

実際に、そのようにブームに便乗したような居心地の悪さは完全には拭えないが、フォークを単なる素材として扱って強引に自分たちの色に染めようとするわけではなく、フォークのスタイルに寄り添いつつ、主に得意とするコーラス・ワークの豊かさでしっかりと特色を出そうとしている点は認めたい。フランキーのファルセットは、ハーモニーで高域のパートを受け持つ際に控えめに使われる程度で、曲にもよるが出番はあまり多くない。

伴奏はほとんどがアコースティック楽器。基本的にエレキ・ギターもドラムスも使われず、ホーンやストリングスも入らずに、アコースティック・ギターやバンジョー、ウッド・ベース、パーカッション類などで組み立てられている。それだけに録音のクリアーさが求められるところだが、どういうわけか録音が優れているとはとても言い難く、曲にもよるが楽器の響きがきれいに捕らえられないばかりか、歪んでしまっているのは大きなマイナス・ポイント。ただし、ヴォーカル・ハーモニーは問題なく録れている。マスターの保存状態が悪くて現行CDの音が悪いわけではない。オリジナル・アナログ盤の時から(ステレオ盤もモノラル盤も)、そうなのである。

結局アルバムのセールスは思うように伸びず、ビルボード・アルバム・チャートの最高は84位にとどまった。セールス不振の理由を、キャッチーなヒット・シングルの不在に求めることはできるだろう。もともとフォークはアルバム志向だから、作り方としては「正しい」と言えなくもないが、フォー・シーズンズはやはりシングルをガンガン売るタイプだから、そういった意味でも無理があったのではないか。

ただし、既成の曲に頼るのではなく、むしろゴーディオのオリジナルが全12曲中8曲(以前に書いた曲や共作も含む)に及んでいる点を考えると、とりわけ他の3人とは出自のいささか異なるゴーディオの、より知的な方向にも進みたいという欲求が、この企画に向かわせた面も少しはあるのかも知れない。

「ボーン・トゥー・ワンダー」は、イントロでフランキーのファルセットが飛び出すが、あとはロード・アイランダーズ版よりもむしろフォークっぽさが強調されている。

「ドント・クライ、エレーナ」はゴーディオが書いた美しいオリジナル・フォーク。こういう曲が書けるということは、ゴーディオの資質というよりは柔軟性の証しだろう。

「花はどこへ行った〔ホエア・ハヴ・オール・ザ・フラワーズ・ゴーン〕」はフォーク界の最重要人物のひとり、ピート・シーガーの作で、フォーク・ソングとしての知名度、浸透度という意味でこのアルバムを代表する曲と言える。

シーガーは1948年にザ・ウィーヴァーズを結成し、1950年に「グッドナイト・アイリーン」のヒットを飛ばすが、共産主義者とみなされて赤狩り攻撃にあい、活動停止を余儀なくされる。失意の中でロシアのミハイル・ショーロホフの小説『静かなドン』を読んでいた時、そこに出てくるコサックの子守唄「コローダ・ドゥダー」の歌詞の一節が気になり、3行ほどをメモしていた。1955年、飛行機に乗っている時にそのメモからふと曲が浮かび、20分で3番までを完成させた。その後、シーガーが作ったその「花はどこへ行った」をコーヒーショップなどで仲間たちと歌っていた当時大学院生のジョー・ヒッカースン(民族音楽研究家)は、短すぎてすぐ終わってしまい、盛り上がりに欠けると思って4番と5番を作った。それだけでなく、1番から3番の歌詞にも若干手を入れている。

シーガーが作ったのは3番まで。

1番:花はどこへ行った→少女たちが摘んだ
2番:少女たちはどこへ→男たちに嫁いだ
3番:男たちはどこへ→兵士となり戦場へ

これにヒッカースンが4番、5番を加えた。

4番:兵士たちはどこへ→みんな死んでお墓へ
5番:お墓はどうなった→花で覆われた

そして5番から1番に戻って終わるというサイクルが出来上がった。

1961年12月にザ・キングストン・トリオがリリースしたシングルは年が明けてチャートを上り、ポップ・チャートで21位、イージー・リスニング・チャートでは4位と、初めてヒットを記録。1962年にピーター・ポール&メァリーが続いたことで、反戦歌として定着した。

フォー・シーズンズはコーラス・ハーモニー主体で歌っているが、ニックが施したヴォーカル・アレンジは、フォークのイディオムを意識しながらもより豊かなハーモニーを表現していて、さすがだ。各ヴァースの6行目、問いかけに対する答えの部分だけをフランキーがソロで歌っているが、よく聴いてみると、3番が通常は「♪みんな兵士となって戦場へ(Gone for soldiers everyone)」と歌われるところを、「♪みんな制服を着ていた(They're all in uniform)」という違う歌詞で歌っている。実はこれは、シーガーが1956年に3番までの歌詞だけで初録音した時に歌ったフレーズだったのである。さすがに4番~5番~1番までつなげて歌ってはいるが、少なくとも1番から3番まではヒッカースンが手を加える前のシーガーのオリジナルに忠実に歌っていて、感心してしまった。

「クライ・マイセルフ・トゥ・スリープ」はクルーとゴーディオのかなり早い時期の共作曲で、1962年1月に(第53回で1961年8月としたのは誤りだったので訂正しておく)トピックスから発売されたマシュー・リードのシングル「ロリポップス・ウェント・アウト・オブ・スタイル」のB面に収められていたのがオリジナル。アレンジをシド・バースが担当し、後のフォー・シーズンズのメンバーもコーラスで参加していたリード版に対し、ここではやはりフォークっぽさがより強調された。アレンジを手がけたチャールズ・カレロによれば、この曲は「悲しき朝やけ〔ドーン(ゴー・アウェイ)〕」「追憶のなぎさ〔ノー・サーフィン・トゥデイ〕」と共に1963年11月20日にアトランティック・スタジオで録音されたとのこと。後にシングル「ガール・カム・ラニング」のカップリング曲に選ばれ、ベスト盤『ザ・フォー・シーズンズ・ゴールド・ヴォールト・オブ・ヒッツ』にも収録された。

「ア・バラード・フォー・アワ・タイム」は、ルー・ストールマンとシド・ジェイコブスンの知られざる作品。駆け出しの頃のバリー・マンをサポートしたりもしたこのコンビの作品には、ディオン&ザ・ベルモンツの「ドント・ピティー・ミー」、ペギー・マーチの「レット・ハー・ゴー」などがある。作曲家ストールマンの初ヒットは、一九五六年にジョー・シャピーロと組んでドリフターズから独立後のクライド・マクファターに提供した「トレジャー・オブ・ラヴ」だが、この曲を持ち込んだ出版社からは、32小節の長さがないことをさんざん指摘された。確かにその長さが当時の通例だったが、ストールマンはそれを無視して24小節でこの曲を書き、ビルボードのポップ・チャートで16位、R&Bチャートで1位と、見事にヒットさせた。同じくシャピーロとの共作によるペリー・コモの「ラウンド・アンド・ラウンド」は1957年に全米第1位となった。1963年にはボブ・バンディンと組んでニューヨーク・ヤンキーズの球団歌「ヒア・カム・ザ・ヤンキーズ」(レコードの楽団伴奏はシド・バース)を書いた。ローラ・ニーロのカヴァーでも知られ、後にデニース・ウィリアムズもヒットさせた「イッツ・ゴナ・テイク・ア・ミラクル」(本来はリトル・アンソニー&ジ・インペリアルズのために書かれたが、彼らが印税の正当な支払いを求めてストライキ中だったためにザ・ロイヤレッツが初録音した)の作者としてもテディー・ランダーゾ(ランダッツォ)、ボブ・ワインステインと名を連ねている。作詞のジェイコブスンは作家、編集者などとして著名で、ハーヴィー・コミックスのキャラクター「リッチー・リッチ」などの生みの親でもある。

クルーとゴーディオが書いた「沈黙は金〔サイレンス・イズ・ゴールデン〕」は、とても美しいメロディーを持つ本番屈指の名曲と言えるだろう。後にイギリスのバンド、ザ・トレメローズがカヴァーし、1967年5月に全英チャートで1位に輝いた。アルバム発表時はステレオ盤にもモノラル・ミックスで収められた。その後、第50回で紹介したとおり、シングル「悲しきラグ・ドール」のカップリング曲となる。後にベスト盤『エディツィオーネ・ドロ(ゴールド・エディション)』で初登場となったステレオ・ヴァージョンは、ヴォーカルに深めのエコーがかかり、フェイド・アウトが少し長くなっていた。

B面については次回。

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November 05, 2014

ミュージカル『ジャージー・ボーイズ』来日決定!/フランキー・ヴァリとフォー・シーズンズ(72) 「Sherry」誕生を見直す

ブロードウェイミュージカル『ジャージー・ボーイズ』の来日が、遂に決まった。以前から噂はあったが、去る11月1日にジャージー・ボーイズ日本公式アカウント @jb2015musical から発表されたのだ。2015年6月に東京・渋谷の東急シアターオーブにて上演、チケット発売は2015年2月頃の予定とのこと。映画の盛り上がりを経て、いよいよ舞台が観れるのだから、これは実に嬉しい。

一方で、これも来年、2015年のフランキー・ヴァリのUKツアーも発表された。6月26日のマンチェスターから、7月6日のグラスゴウまで6公演である。そこで気になるのが、フランキー・ヴァリ&ザ・フォー・シーズンズ悲願の再来日だが、今年1月の初来日公演と、今回のミュージカル『ジャージー・ボーイズ』は、いずれも招聘元がキョードー東京である。ということは、再来日も充分に期待できるのではないか。これは絶対に実現して欲しい。

ところで、映画『ジャージー・ボーイズ』の話題でもちきりだったこの一か月、私の方はブログの更新がストップしていたが、別にシングル紹介が「Can't Take My Eyes Off You(君の瞳に恋してる)」まで到達したから気を抜いたとか、休んでいたとかでは、決してない。実はみなさまによりよい情報を提供できるよう、いろいろと作業に取り組んでいたのだが、まだ具体的なことは何もお知らせできる段階ではない。ブログの方も、どのように進めていくか検討中である。

ただ、これまでに書いてきたブログの内容を精査する中で、とりわけ重要な「Sherry」についての記述(特に第26回)がかなりいい加減で、誤った情報も含まれていることがわかった。これだけは早急に正しておく必要があったので、今回は「Sherry」誕生までを、改めて紹介し直させていただきたい。

★★★★★
Vj456a

A) SHERRY (B. Gaudio) 62-2569 #1
B) I'VE CRIED BEFORE (B. Gaudio) 62-2570
THE 4 SEASONS
Produced by: Bob Crewe
Arranged and Conducted by: Sid Bass
Vee-Jay VJ #456 [July 1962]

ザ・フォー・シーズンズとしての一応第1弾だった「Bermuda」(1961年12月末のリリース)が失敗に終わった後も、ボブ・クルーとボブ・ゴーディオは試行錯誤を続けながら、グループがブレイクするための素材を常に探し続けていた。どれもなかなか決め手に欠けていたのだが、クルーがある夜、ニュージャージーのポイント・プリーザントのナイトクラブでフランキーのパフォーマンスを目の当たりにした瞬間、いきなり突破口が開けたのだった。クルーは回想する。

「ボーイズは30分のステージをこなしていた。それが終わって客席がはけた後、ちょっとしたジャズのジャム・セッションが始まったの。フランキーはナプキンを手に取り、バブーシュカを頭に巻くと、2本のマラカスを胸に当てて、ローズ・マーフィー風に歌い始めたのよ、『♪I can't give you anything but love, Chichi...』って。この声はいったい何?って思ったわ。それでボビーに言ったの、『今すぐ家に帰って曲を書くのよ。テーマは何だっていいけどただ一つ、高いファルセットから低いバリトンへ、そしてまた低域から高域まで戻るような、オクターヴの跳躍だけはちゃんと組み込んでね。驚くべきものになるわ』って。そして3日後、彼が書いてきたのが“Sherry”だった」

ゴーディオは、出来上がった曲を電話越しに聞かせたときの、クルーの反応をよく覚えている。クルーはこう言ったのだった。

「ヘマさえしなきゃ、1位を獲れるわよ!」

もう少し詳しく見ていこう。まずは舞台版『ジャージー・ボーイズ』のスクリプト本に掲載されたボブ・ゴーディオの発言から。

「私が“Sherry”を書いたのは、ボブ・クルーの下で3~4曲録音するためのリハーサルが何日も続いた後だった。私は15分か20分、何もしないでいた。そしてピアノに向かったら、まさに文字通りに、パッと浮かんだんだ。私はちょうど、ニューアークにあるフランキーの家でのリハーサルのためにゴールデン・ステイト・パークウェイを下っている時に思い出したばかげた歌詞を、念のために書き留めておいたところだった。まるでB級映画のストーリーみたいだけど、これは実際に起きた話なんだよ。シェリーとは誰かって? まさに舞台で語られるように、彼女は客観的相関物だ。私の知っていたあらゆる女性、デートしたことのある誰もがあてはまる」

続いてボブ・クルーの言葉。

「ボブは電話越しに、“Sherry”のほんのちょっとの断片を聞かせてくれた。ピアノのイントロと彼の歌だけをね。私はすっかり興奮して、『通して聴きたいから、すぐに来て』と言ったのよ。舞台では、私があたかも年中羽振りがよかったみたいに描かれているけど、次に起きたことは台本にはないわね。本当は私、レコードを作るかどうかの選択を迫られたの。家賃を払うのか、それともアレグロ・スタジオに行って“Sherry”を録音するのかって。結局その月の家賃は、私の両親が払ってくれることになったのよ」

ここで、あれっ?と思う方もいるだろう。そもそもフォー・ラヴァーズもしくはシーズンズは、これまでにもクルーの下で何曲も録音してきたではないか。なぜこの曲に限ってお金が必要だったのか。実はクルーは別のインタヴュー(大本のソースは同じかも知れない)で、「家賃を払うのか、スタジオに戻って、あと一曲録音するのか」の選択を迫られたとも言っている。つまり本来予定されていた曲の録音で予算は使い果たしてしまったが、無理をしても追加で録音するだけの価値が「Sherry」にはあると信じていた、ということだったらしい。

一方『ジャージー・ボーイズ』では、ゴーディオの書いた4曲を録音しようというところで、豪華なマンションに住んでいて見た目は羽振りのいいクルーが「文無しなの」と言い、トミー・デヴィートが高利貸しのノーマン・ワックスマンから大金を借りる。ところが舞台版と映画版とではその後が違っていて、舞台版ではクルーの父が資金を用立てしてくれたため、クルーはトミーから金を受け取らない。一方映画ではクルーが金を受け取り、これが実際にレコーディング費用として使われる。いずれにしてもこれはストーリー上の創作ということになる。詳しくはElainesさんのブログの記事「ステージからスクリーンへ(3)」を参照されたい。

この曲のタイトルが「Sherry」に決まるまでに「Terry」「Jackie」「Perri」といった具合に二転三転したと、これまで語られてきた。しかしボブ・ゴーディオは、これを否定している。

「『ロックの殿堂』の記録保管所のどこかに、“Sherry”ではなく“Cheri”と書かれたオリジナルの手書きの歌詞があると聞かされた。でも私には、実際にこの目で確かめるまで信じられなかった。だからそれだけは間違いないが、“Perry”だとかほかの名前で呼ばれたことは決してない。昔、この曲のマスターを買いたがっていた男がいた。金持ちの不動産屋で、レコード・ビジネスに参入しようとしていたんだ。その彼の娘の名前が、確かペリーだったと思う。私が“Sherry”から“Perry”にタイトルを変えるとでも? 作り話はいくつもあるが、真実は一つしかない」

「Sherry」が録音されたのは、1962年4月と思われる。クルーの発言にあるアレグロ・サウンド・スタジオは、ブリル・ビルディング(ブロードウェイ1619番地)の筋向いにある、アルドン・ミュージックなどの入ったビル(ブロードウェイ1650番地)の中にあった。ただしこの曲が録音されたのはここではなく、ニューヨークのミラサウンド・スタジオだとする資料もある。

アレンジはシド・バースが担当し、ラテンの要素を盛り込んだシンプルで印象的なリズムに仕上げた。一方ヴォーカル・アレンジはニック・マーシで、フランキーの強烈なファルセットに対して縦横無尽のコーラスが絡む、驚異的なトラックが完成した。

「♪She-e-rry~」とフランキー・ヴァリがファルセットで歌うイントロ、ヴァースおよびコーダ部分には、1950年代後半にバディー・ホリーが多用していた、ヴォーカルを重ね録りしたダブルトラックという録音技法が使われている。ニックの「♪Why don't you come out」、コーラスの「♪come out」と掛け合うコーラス(サビ)部分はシングルトラックである。

ヒットを確信したクルーは、レコード業界のコンヴェンションが行われていたマイアミに飛び、ヴィー・ジェイ・レコーズと交渉してマスターを売却することに成功した。1953年にインディアナ州ゲーリーで設立されたヴィー・ジェイは、1954年からシカゴを拠点に、ブルーズやR&B、ゴスペルなどの作品をリリースしていた。1960年代に入り、ツイスト・ブームにも呼応していたが、それまで白人アーティストを手掛けたことはなかった。

7月後半、「Sherry」はそのヴィー・ジェイからリリースされた。前年暮れにゴーンからリリースされた「Bermuda」が売れなかったことで、一度はゴミ箱行きになりそうだった「ザ・フォー・シーズンズ」の名称が――この間に(ビリー・ディクスン&)ザ・トピックス名義でシングルを2枚リリースしている――、無事に復活していた(「Bermuda」では“The Four Seasons”だったが、「Sherry」から“The 4 Seasons”と表記された)。

リリース当初はほとんど騒がれることもなかったが、テレビでのプロモーションの必要性を熟知していたクルーは、古くからの友人であるディック・クラークに頼み込んで、彼が司会するテレビ番組『アメリカン・バンドスタンド』でシングル盤を掛けてもらった。その反応がよかったため、二週間後の8月15日、遂に本人たちが画面に登場して「Sherry」を披露した。声だけ聴いて黒人だと思い込んでいた人も多かったようで、動く彼らの姿を初めて『アメリカン・バンドスタンド』で観た人たちはさぞ驚いただろう。ゴーディオは語る。

「ディック・クラークが私たちを紹介してくれたわけだけれども、番組が始まって正体がわかるまでの1時間ほど、私たちはホワイトR&Bのグループだと思われていた。私たちのレコードを回し始めたのは、たいていがR&Bのラジオ局だった。当時ヴィー・ジェイ・レコーズの副社長だったイワート・アブナーにとって、当初R&Bのレコードとして扱われたことはショックだった。だいたいにおいて、ジョッコ・ヘンダースンのような黒人向けラジオ局のDJたちから始まって、徐々にジャンルを超えて、よりクリーンなテレビの世界に入って行ったんだよ」

数字の信憑性はともかく、番組出演の翌日には18万枚の注文が殺到したという。「Sherry」は1962年8月25日付ビルボード・ホット100で65位に初登場、以降22位、11位と急上昇し、登場4週目の9月15日付けで堂々第1位を獲得。トップの座を5週間もキープした。そしてR&Bチャートでも第1位を獲得している。

(続く)

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